マルコ12:28-34 年間31主日(2021年10月31日)
皆さんはどのような思いで教会に来られておられるのかなと時々思います。そして神様を大事にしたいから、少しでもイエス様に近づきたいから、そのような自分の心を表すために教会に来たという思いを持つことができるならどんなにすばらしいかと思います。私たちが少しでもイエス様を大事にし、神様の喜ばれる心をもって生活したい、その思いを祈り神様に伝えるならどれほど神様はその祈りを喜んでくださることでしょう。ただ自分中心の信仰、自分の願いだけを祈る信仰ではなく、イエス様をもっと大切にし、イエス様に心を向けて愛する信仰へと変わっていきたいです。
今日の福音でイエス様はまず第一に神様を愛することを話されます。なぜ神様を愛し大切にしなければならないのでしょうか。それは今ある自分のすべてが神様の恵みによるものだからです。神様は私の大恩人であるという自覚。この私の存在、人生は私の力によるのではなく、神様からのものであること。私が生きている以上に、神様から生かされ、導かれていること。このような自覚、思いはとても大切だと思います。そしてこのような思いから神様への感謝の心が生まれ、神様をもっと大切にしようとする心が芽生えます。
神様に対する愛の必要性は、私たちがどれほど神様から恵みをいただいているか、その自覚、意識の深さによると思います。だからこの私に注がれている恵みの神秘を思うことから始めたいです。皆、正直に自分の人生の歩みを振り返るなら、きっとそこに神様の働き、支えがあったことを見出すことができるはずです。自分が生まれて今日までの歩みの中で、神様に感謝したい出来事を思い返すこと。うれしかったこと、人からいただいた親切、また苦しみ、悲しみの出来事の中で、神様が支え続けていてくださったことへの気づき。また自分の不十分さに対して神様に赦しを願っていくこと。そのような振り返りを通して神様のあたたかい心に触れていくことです。
それでは神様を愛するとはどうすることでしょうか。神様は人間に何かをしてもらうことを必要としている方ではありません。神様は条件なしで人間を愛してくださる方です。その神様の私たちへの愛に気づき、感謝の思いを起こすこと。同時にこの神様への愛は、自ずと隣人を愛することへ向かわせます。私たちが神様を愛することと、隣人を愛することは別のことではなく、一つのことです。なぜなら私たちが隣人を愛することこそが神様の望みだからです。隣人愛を生まないような神様への愛は単なる自分の宗教心を満足させているにすぎないかもしれません。聖書の語る「愛」は、そのものをそのものとして「大切にすること」です。そしてその愛はイエス様が話された善きサマリア人のたとえのように、自分の方から「隣人になっていく」愛でしょう。
ヨハネの第一の手紙の「目に見える兄弟を愛さないものは、目に見えない神を愛することはできません。」(1ヨハネ4・20-)という言葉が響きます。ある方で寝たきりの義母に誠意をもって尽くし関わり続けたことによって、神様への愛を確かに生きた方がおられます。神様への愛を生きることで時には大きな苦しみや困難を経験することもあるでしょう。しかしそれでも後からきっとわかります。投げ出さずに最後までやってよかったと思える時が必ずきます。それが神様が確かにいてくださり、今も働き続けておられることの証しです。特に貧しい人、苦しんでいる人、虐げられている人、自分の力で生きていけない人々に対する愛を大切にしていければと思います。損する生き方のように思える時もあるかもしれません。しかし損が損ではなかったといつかわかる日が必ず来るでしょう。その時神様がはっきりと教えてくださるでしょう。それを信じて今日も歩みたいと思います。イエス様は今日も私たちに語りかけられます。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。」
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