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2020年11月8日 年間第32主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2020年11月8日
  • 読了時間: 4分

マタイ25:01-13 ミサ説教

このイエス様がなさった10人のおとめのたとえ話を聞いて、誰もがどうして油を用意していたおとめたちが、油を用意していなかったおとめたちに油を分けてあげなかったのだろうかと思うと思います。賢いおとめたちは確かによく準備して予備の油を用意することも怠りませんでした。でも愚かなおとめたちはそこまで気がまわらなくて、油を用意することを忘れてしまいました。でも愚かなおとめたちも、悪気があって忘れてしまったのではなかったと思います。そこまで気がまわらなかったということでしょう。もし花婿が遅れることなく時間通り到着していたら、愚かとされたおとめたちもちゃんとともし火をともして花婿を迎えることができたでしょう。

イエス様は今まで教えのなかで「互いに愛し合うこと、助け合うこと」の大事さを何度もおっしゃってきました。だから

油を分けてあげなかった賢いおとめたちが取った行動はイエス様の思いに合わないのではないかなどの思いが私たちには浮かんできます。でも考えられることは、本当は油を用意していた賢いおとめたちはできることならどんなに油を分けてあげたいと思っただろうかということです。いじわるで油を分けてあげないのではない。でもこの油は分けてあげたくても分けることのできないそんな油なのだということではないかということです。

人に分けてあげることができない油。一人ひとりが自分で用意しなければならない油。それは私たち一人ひとりのいのちとその人生を表しているのではないでしょうか。一人ひとりのいのちと人生は人に分けてあげることはできない。一人ひとりが準備してよく考えて歩んでいかなければならない。人が代りに自分の人生を歩むことはできない。親が代りに子どもの人生を歩むこともできない。イエス様はこのたとえを通して、一人ひとりが自分の人生で準備しなければならない大切なものがあることを伝えようとされたのだと思います。

イエス様は人々に世の終りが必ず訪れること、その時一人ひとり自分の生き方が問われることを教えられました。その中で今日のたとえ話をされました。当時の人々はその世の終りが訪れるのは遠い先のことではないと思ったかもしれません。でも現代を生きる私たちは、世の終りと聞いてもピンとこないしよくわからないというのが正直な反応かもしれません。それでも誰にでもいつかこの世を旅立つ時が訪れます。ある意味で私たち一人ひとりにとっての人生の締めくくりとなる日です。その時を心安らかに迎えることができるように、いろいろあったけれど、失敗もいっぱいしたけれど、それでも精一杯歩むことができたのではないかとそう思えたら幸いだと思います。

イエス様が教えてくださったことの中で究極のことは、私たちのいのちがこの世のいのちで終わるのではないということです。この世のいのちを経て、神様のもとで永遠のいのちにつながっていく。そのいのちに私たちもあずかる希望が与えられていること。そのために今はこの世にあって準備の時を過ごしていること。私たちの人生はそこに意味があること。イエス様は神の子として天の父から遣わされて、私たちと同じ姿になってこの世に現われてくださいました。それは私たちをご自分の父、天の父のもとに導くためでした。そして天の父の心を伝えること、天の父が何を私たちに望んでおられるのか、どのような生き方をするように求めておられるのか、そのことを自らの言葉と行いで表してくださったのがイエス様でした。

私たちはそのようなイエス様につながって歩む事ができます。イエス様の姿は今は私たちが直接見ることはできません。でも目で見ることができなくても、イエス様は今も私たちの中にいて、私たちと共に歩んでくださっています。ごミサの度にご自分の体を私たちに分かち与えてくださっています。そのようなイエス様を信じ、イエス様につながって歩む事。今日のたとえ話のように、一人ひとり神様が求められる油を用意していくこと。そのような生き方をしていきたいです。その力をこのミサを通して祈りましょう。

 
 
 

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