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執筆者の写真 カトリック戸塚教会

2021年1月10日 主の洗礼

マルコ01:07-11


主の降誕の喜びをお祝いしてきた降誕節を締めくくるのは主の洗礼の祝日です。そしてこの主の洗礼の出来事はイエス様の活動の出発点でもあります。主の洗礼の祝日にあたり、あらためて洗礼ということについて考えてみたいと思います。私たちは洗礼をどのようにとらえているでしょうか。また洗礼が意味することは何でしょうか。


洗礼とは、救いのため、天国に入るための切符のようなものではないと思います。洗礼は、その恵みを通して自分が新しく生まれ変わり、自分が少しずつ神様の目でものごとを見、また神様の愛で愛することができるようになっていくことです。私たちにとって洗礼が到達点、最終目的ではありません。洗礼は出発であり、そのための神様からの祝福です。洗礼を受け、その恵みを自分のものとして生きることの中に真のいのちへの招きがあります。


神の子であるイエス様は、人間の心から悪を取り除き、人間の心を新しいものへと生まれ変わらせるためにこの世に来られました。洗礼はそのあらたに生まれるための恵みであり、大きなしるしとなるものです。私は洗礼式を行うときに実感することは、これはやはり神の力、神様が働いておられるということのしるしだということです。多くの人々が神様の存在また神様の働きに無関心である中、洗礼を受けることを望み、そのような気持ち、心になるということ自体、神様がいてくださる、働いてくださっていることのしるしだと思います。


洗礼を受けるとき一番大切な心は、謙遜な心です。何か自分がふさわしいとか、洗礼を受けるに価するということではなく、謙遜に自分の無力さ、小ささを思い、その自分を支え導いてくださる神様の力と愛に大きな信頼をいだくことです。


一般の人々からの問い、「なぜ教会に行く必要があるのか」、「なぜミサのために集まる必要があるのか」、そのような問いに私たちはきちんと答えていく使命があるでしょう。そしてそのためにいろいろな話や説明をすることもできるでしょう。でも最後はやはり理屈ではないと思います。洗礼を受けるということも、ミサのために集まるということも、理屈を越えた何かがあるからです。そしてその理屈を越えたもの、それはやはり神様の存在です。理屈を越えて神様が働いてくださっているから、理屈を越えて神様が私たちを愛してくださっているから私はそうしたい、またそうするように招かれているように感じるから、それを大切にしたいということではないでしょうか。


洗礼を受けて大事なことは、神様の力を信じて生きることができる人になること。そして周囲の人々に神様がおられること、神様が共に働いてくださっていることを指し示すことができる人になっていくことです。弟子たちにイエス様が望まれたように、天の父である神様の心がくみ取れる人になること。この世の価値や見方を超えて、イエス様が示された過ぎ越しの神秘、十字架の愛を通して死から真のいのちに移るという神秘を生きることができる人になっていくこと。


その洗礼をイエス様御自身が洗礼者ヨハネからお受けになります。神の

子であるイエス様がなぜ私たちと同じように洗礼をお受けになられたのでしょうか。ここに大きな神秘があります。そして考えられることは、イエス様にとって洗礼をお受けになるとは、イエス様自身、御自分のこの世での使命、天の父から委ねられている使命に目覚め、それを生きるためだったということです。イエス様がこの世で担われた使命は苦しむ僕としての使命でした。神の愛ゆえに、自らの苦しみよって、すべての人を救いへと導く使命です。その苦しみの僕の使命を積極的に引き受けるしるしとしてイエス様も洗礼を受けられたのです。

イエス様は洗礼を受けられた時、祈っておられました。祈りは、使命に目覚めるために必要なことです。神と心を一つにして、神様が私に何を望んでおられるかを知る。神様の私に対する期待を聞く。そこから自らの使命に目覚めていく。それが真の祈りです。自分の使命をしっかりと受けとめられたイエス様に天の父から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が注がれます。自分の使命をはっきり認め、無条件にそれを受け取られたイエス様に対しての天の父の心がこの言葉に表されています。神様から与えられる使命を素直に積極的に受け取る人こそ、神の心に適った人であり、そのような人こそ、神から「あなたはわたしの愛する子」と呼ばれる人です。イエス様は、自ら洗礼を受けることを通して私たちにたどるべき道を示されました。私たちも洗礼が持つしるしの意味をよく理解し、その恵みを生かすことができるように努めたいです。

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