マタイ21:1-11
今日、私たちは聖週間の最初の日、受難の主日を記念しています。受難の主日は、イエス様が天の父のみ旨に従おうとする熱意と、人々のために身を捧げたいという思いから、あえて苦しみが待っているエルサレムに向かって進んでいかれたその出来事を思い起こす日です。その枝の主日で一番大事な姿は、ろばに乗ってエルサレムに入城されるイエス様の姿、そしてそのイエス様の心の思いです。ろばは、荷物を背に載せて運ぶ役割をしていた動物です。そして働く貧しい人たちのよき協力者でした。王様とか、地位のある人、金持ちはろばに乗ったりはしません。きっと立派な馬に乗るでしょう。でもイエス様は、ろばに乗って行かれる方、そのような方として御自分をお示しになられました。
そしてイエス様が向かわれるその先エルサレムで待っているのは、苦しい十字架の死でした。イエス様はそれを知った上で、そこに向かってろばに乗って進んで行かれます。
人々はそのようなイエス様の心の思いに気づかず、イエス様のことを自分たちを苦しみや貧しさ、敵からの圧迫から救ってくださる方、その意味での救い主、王としてうかれて大声でほめたたえ、万歳、万歳と叫びます。私たちが今手にしている枝も今はみずみずしい緑色をしていますが、時間が経つと段々枯れていき色が変わっていきます。それはあたかも人間の思い、心のもろさを示しているように見えます。そのような人間の誤解、無理解の中にあって、イエス様はたんたんと進んで行かれます。
その姿は第2朗読のパウロのフィリピの教会への手紙に示されています。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」自分を無にしていくこと、空にしていくこと。イエス様はそうなさいました。そしてそのようなイエス様の姿を天の父である神は高く上げらました。イエス様がお教えになられた愛とは、自分を空っぽにしていくことかもしれません。自分が傷つかない、自分を完全に守った状態で、それでも余裕があるなら少し他者のために何かしようというものではなかったのです。イエス様がその謙遜で柔和に十字架を担われる姿で語られるのは、神様のよさとあたたかさだと思います。人間を責めるのではなく、逆に苦しむ人とともに苦しみ、悩む人とともに悩む。そして心を開いて御自分に近づく者にそれを耐え忍ぶための慰めと力をお与えになる。イエス様は私たちの苦しみや打ちひしがれた憂い、思いを共に感じ、いっしょに担ってくださる方です。
私たちの日常でも、自分の健康のこと、家族のこと、仕事のこと、人との関係のことで、自分の思いのままにならないこと、苦しいこと、できれば避けたいこと、やむをえず引き受けなければならないことがたくさんあります。そしてそのために力を失い倒れそうになることもあります。そのような時、あえて苦しみの待つエルサレムへ向かうことを躊躇されなかったイエス様の姿を思い出したいです。イエス様の十字架を担われる姿は、私たちがどんなに苦しみと憂いに打ちひしがれているときでも私たちは決して一人ではなく、イエス様も苦しみを共にしてくださっていることを告げてくださっています。苦しみということを本当に知っている人にとって、イエス様のこの苦しみの姿こそ、神様は私たちを決して一人にはしておかれないということを表し実感させてくださるのではないでしょうか。
私たちはミサの度に「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」という最後の晩餐のイエス様の言葉を聞きます。そしてこの言葉は、イエス様の十字架の真の意味を教えてくれます。御聖体と十字架のイエス様の姿は同じことを私たちに示しています。私たちを思い、私たちのためにすべてを与えてくださる、それが真の神様の心であるということ。御聖体をいただくとき、そして十字架像を仰ぐとき、自分は一人ではないと自分に言い聞かせることができたらどんなにすばらしいでしょうか。そしてそのようなイエス様との深い交わりを自分の中に保てるように願いたいです。
この聖週間の間、イエス様の御受難を黙々と歩まれた姿を自分の心に焼き付けたいです。今年も始まるこの聖週間を通して少しでもイエス様の心に私たちが深くふれ、そこから力をいただき、私たちも十字架を恐れず、イエス様につながって歩むことを祈りたいです。そしてイエス様の歩まれた御受難に私たちもしっかりつながり、来週迎える復活の主日を喜びの心で迎えることができるように祈りたいです。
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