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2024年3月10日 四旬節第4主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2024年3月9日
  • 読了時間: 4分

ヨハネ03:14-21

 

イエス様は言われます。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」。この人の子というのはイエス様のことで、人の子も上げられねばならないとは、イエス様の十字架の死を意味しています。イエス様はご自分の死と引き換えに、私たちに永遠の命につながる希望を与えてくださいました。神様は、すべての人間を受け入れ、慈しみ、赦すために御自分を無にされました。それが神の独り子であるイエス様の十字架の死の意味です。反対され殺される苦しみの極みにあっても、すべての人間を受け入れ、慈しみながら赦される神のみこころを示してくださいました。

 

同時にイエス様は苦しみですべてが無に帰せられるのではなく、そこから真の命が開かれていくことも身をもって示されました。その開かれた命を、死を超えた命、永遠の命という言葉で表されました。この死を超えた永遠の命について人間である私たちが自分の経験に基づいて語ることはできません。でも私たちは希望を持ってその命を信じることができます。なぜなら神の独り子であり、私たちの救いのためにご自分を無にしてくださったイエス様がはっきりとおっしゃってくださっているからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣われたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。

 

子を見て信じる者を皆、永遠の命を得るようにしてくださる。子を見て信じる者皆を復活させてくださる。これがイエス様の言葉であり約束です。イエス様はその命への希望があることをはっきりと言葉で示してくださっています。そして私たちにとって大事なことは、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」という言葉です。「独り子を信じる」とはイエス様の言葉と姿をしっかりと自分の中に受け止め、イエス様の心にふれ、イエス様と結びついて生きる姿を言います。ただ知識としてや頭の理解でとどまらず、自分の生きる姿の中にイエス様の姿が中心になることです。そのような生き方が死で終わらない永遠の命につながっていきます。

 

イエス様が示してくださる言葉は、この世では苦しみと絶望的な未来しかないと感じられる時に、なおも神様に信頼し、人を愛し希望を持って生きることができる鍵となるものです。永遠の命、すなわちこの世の命のレベルを超えた永遠の神御自身の命に与ること、これが私たちの人生の目的であり希望です。私たちの生涯はこの世での死で終わるのではなく、そこから永遠の命の世界への旅立ちが始まります。そしてその旅立ちのための準備は今すでに私たちの生活の中から始まっているということです。がんばらなければ、いやがんばりたくないとかではなくて、素直にもう一度イエス様の話されたことばにふれていくことから始めることが大切です。

 

私たちの人生の目的はイエス様の言葉から見出すならば、約束されている永遠の命を得ること、終わりの日に復活の命に与ることです。そのイエス様が示される人生の目的に私たちが与るために欠かすことができないことがあるとすれば、それは信じるということです。私たちは永遠の命に与るために、自分で具体的にどう歩んだらいいか、どのように生活したらいいか正しく判断することができません。私たちは自分の判断に従って歩もうとするなら、必ず自分中心の生き方をしてしまいます。でも、イエス様を自分の中心に置いて、イエス様と心を合わせて物事を判断していこうとしていくなら、イエス様と共に永遠の命につながる生き方を生きることができます。

 

信じるとは、イエス様を自分の中心に置くという生き方をすることです。私は戸塚教会の聖堂の脇にある小聖堂の十字架のイエス様の像を立ったまま見つめながら祈りの時間を過ごすことを大切にしています。十字架のイエス様のお顔を見つめながら静かな気持ちを大事にしていると、自ずと自分の素直な思いと言葉が祈りとして発せられることを体験しています。飾ることのない素直な思いを祈りとしてイエス様にお伝えしていく。そして自分中心の思いではなく、もっと自由になった思いで物事を考えることができるようになれることを感じています。

 

イエス様とつながる。そのために自分をイエス様の前に置いていく。そのような時間を大切にしていく。そしてそこで感じることができたことを実際に生活の場で活かしていく。それを積み重ねていくことが、永遠の命、終わりの日の復活へとつながらせていただくことになるのだと思います。この四旬節の間、私たちもそのような実践を大事にしながら、皆がその生き方、歩みができますように祈りたいです。

 

 

 

 

 

 

 


 



 
 
 

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