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2024年2月4日 年間第5主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2024年2月4日
  • 読了時間: 4分

マルコ01:29-39

 

イエス様は、会堂を出て、シモンとアンデレの家へ行きます。そこでシモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエス様に話し、イエス様がそばに行って手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなしました。普通に読むと、イエス様は神の子で病気を癒す力を持っておられるので、その力で熱に苦しんでいたシモンのしゅうとめを癒されたのだな。熱の病を癒してもらったシモンのしゅうとめは幸いだっただろうな。でも自分には何か遠い出来事で、自分にはそのようなイエス様の慈しみの業がもたらされることは現実には無いだろうな、などの思いを抱く人は多いのではないかと感じます。

 

同時に、私たちは救いというものを、病気や苦しみが癒され、問題がすべて解決された状態のようにとらえてしまってはいないでしょうか。問題はあってはいけないのだ。苦しみが無くなることこそが救いなのだ。そのために自分は祈り、教会に来てミサに与っていると思っている人は多いと思います。でも、今日の福音の場面から受け取るメッセージは、シモンのしゅうとめは熱が下がって病のいやしに与っただけではなく、イエス様がもたらされた救いに与ったのだということです。そしてその救いとは、苦しみや問題が消え去るということより、熱が去った彼女がその後すぐに一同をもてなす働きをしたとあるように、救いとは「仕える」、「もてなす」という生き方が出来るようになるということです。

 

イエス様がもたらす救いは、人の体を癒すことだけでなく、その人の生き方をも癒し、人々に仕え、共に生きるという神様が人間に望まれている本来の姿を回復させることにあります。私たちはこのことを大事に受けとめる必要があります。イエス様がこの世に救い主として来られた大きな意味は、様々なことに囚われ、縛られている人間を真の自由と愛に満ちた生き方へ引き戻すことにありました。病気のいやしも、ただその病気がいやされることよりも、その人が自由を取り戻し、愛に満ちて生きることができるように、そのことを願ってのいやしでした。

 

シモンのしゅうとめは、イエス様に手を取って起こしていただいたおかげで熱が去り、そしてすぐに一同をもてなしました。彼女は料理を作るのが上手だったかもしれません。また人をもてなす温かい心の持ち主だったかもしれません。彼女のイエス様に対する感謝のしるしは、長い祈りを唱えることではありませんでした。人々をもてなすその行いを通して神様に対する感謝の心を表したのです。何気ない出来事、行いのように見えますが、福音に描かれている場面をよく見つめていくとき、そこに大切なメッセージを読み取ることができます。私たちは、もしかしたら病気のいやしを祈り求めても、それがよりよく愛を生きるためであるというところまで思いがいたっていないかもしれません。しかしイエス様が人間の中に見ておられる真の束縛は、病気によるからだの束縛以上に、心がそのためにふさいでしまっていることと言えるのではないでしょうか。逆に大きな病を抱えていても、心が愛に開かれて一生懸命生きている人をどれほどイエス様はお喜びになられるでしょう。この世には人間の心を縛り不自由にしてしまう様々な要素が混在しています。その現実をよく見つめることが必要でしょう。

 

人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエス様のもとに連れて来ました。イエス様は、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しになりませんでした。病気を癒すだけでなく、悪霊を追い出される。ここにもイエス様が救い主として来られた大事な意味があります。悪霊というものが私たちにはつかみにくいかもしれません。悪霊は神様に反する働きをする霊で、悪霊のねらいは、私たち人間と神様とのつながり、絆を断ち切ることです。私たちから神様の存在を忘れさせ、それぞれが自己中心に生きるように働きかけるのが悪霊の姿です。現代という時を生きている私たちもやはりこの悪霊の影響を受けています。悪霊の一番の狙いが私たちが神様とつながることがないようにすることであれば、悪霊の働きに対する一番の守りは、私たちがいつもどんな時でも、神様と対話していくことです。

 

イエス様も、朝早くまだ暗いうちに起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられました。イエス様にとっての祈りとは、御父との対話、御父との深い交わりだったでしょう。ご自分の父である神に、何でも話し、その中からご自分の果たす使命を確認し、それを生きる力を得られていたでしょう。私たちも、そのような祈りが必要です。神様に何でも話し、うまくいっていることもいっていないことも何でも伝え、その神様との対話の中から自分にとって大事にすべきことを見出していくことです。祈りは深い神様との交わりの時間です。今日、この福音の場面に出会った私たちが、そこから大切なメッセージを受け取り、自分の生活につながりをもたせて歩んでいけますように祈りたいです。その歩みにいつもイエス様が共にいて支えてくださいますように。

 

 

 

 

 

 

 
 
 

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