マルコ01:40―45
病気はやはり苦しいものだと思います。どんな病気でも病気である以上、苦しみのない病気はありません。そしてその病気がもし人から嫌がられたり恐れられたりする病気であるなら、その苦しみは倍以上に重くのしかかります。病気を患うということだけでも人間にとってつらいことです。しかしその病気のゆえに人から離れなければならない。そして周りに励ましてくれる人、支えて助けてくれる人がいないならもっとつらいことです。
私はイエズス会に入会し最初の2年間の修練期を過ごす間、一か月の実習として御殿場にある神山復生病院で過ごしたことがあります。ハンセン病で療養されている患者さんたちと一緒に作業をし、今までの歩み、体験を聞かせていただく一か月を過ごしました。病気のために外見に重い後遺症が残りながら、心はとても清い方々がたくさんおられました。病気がわかってから今までの歩み、生活、苦しみについて語ってくださいました。それは私にとって忘れられない体験になりました。
イエス様は今日の福音の場面でこの重い皮膚病の人を見て深い憐れみの心を起こされます。イエス様は心を揺すぶられ、手を伸ばし、その人に触れられます。イエス様はこの、人々から疎外され、偏見の目で見られ、心身ともに悲惨な状態に置かれた思い皮膚病を患った人を救おうとされます。イエス様の救いは、その病気の身体的症状を回復させるということ以上に、人々の愛から閉め出されているこの重い皮膚病の人の心にイエス様のあたたかい心でふれていかれるところにあります。神の子であり、私たちの救い主であるイエス様はそのような方であるということ。人々とのあたたかい交わりから疎外された苦しみ、孤独を何よりも悲しまれる方であること。そしてご自分はそのような人々に近づいていこうとしてくださる方であること。
人間には、病気以上の苦しみがあります。それは人々のあたたかい愛から閉め出され、冷酷さの中を生きていかなければならない苦しみです。イエス様はこの重い皮膚病の人に手をのばし、彼にふれます。イエス様はご自分の全存在を傾けて、この人の悲しい願いを受け取り、手をさしのべます。それは人から愛される体験を失ってしまったこの人にとって、本当の意味での救いだったのではないでしょうか。救いとはそのようなものであるということです。本当の救い主とは、愛が欠けた状態にあたたかい愛をもたらしてくださる方であるということです。
今日の福音の場面でもう一つ私たちが見つめるべきことがあります。それはなぜイエス様は誰にもこのことを話さないようにと言われたのかということです。もっと、このすばらしい出来事を人々に言い広めてもよいのではないかという考え方もあると思います。しかしイエス様が、誰にもこのことを話さないようにと言われたのは、イエス様の力ある業を見て、ただ現実的な苦しみや悩みを解消してくれる救い主としてだけイエス様を見てしまい、イエス様の真の姿を誤解してしまう危険があったからです。当時の人々が自分たちを苦しみから解放してくれる力ある救い主を夢み、期待していたのは本当です。だから人々がイエス様の奇跡を見て、自分たちの望みにこたえ、現実的な不幸を取り除いてくださる救い主の姿をイエス様のうちに見てしまうのも、無理のないことだったと言えます。しかし、イエス様が人々の中に見つめておられる不幸とは、そうしたものではないのです。
今日の第一朗読の創世記の中の罪の物語は、人間が神様から離れたことから来る悲劇と苦悩を示しています。イエス様が人間の中に見ておられる不幸とは、人間が神様から離れ、神様を見失い、そのあたたかい愛を見失った姿です。神様から離れ、その愛を見失うことによる孤独と絶望こそ、イエス様が心を向け導き救おうとされた人間の姿なのです。神様そしてそのあたたかい愛に触れる以外救いがないという真理。この真理を私たちがどう受け止めていくかだと思います。
今日、このみ言葉に触れた私たちが、どのようにイエス様を自分にとっての救い主として受けとめ、イエス様が招こうとされる真の救われた状態に導かれるために何が必要なのか、私たちも祈り、見つめなければと思います。そして、私たちもイエス様のあたたかい愛を受けとめ、その心を生きることを通して、真の救いに与ることを願いたいです。
今、私たちは一人ひとりが自分の日常生活においてイエス様と向き合って生活していくことが求められます。ある意味で私たちの信仰の原点に立ち帰るということです。これからの教会として大事にすべきことを見つめ、私たちが生きるこの社会の中で信仰の光をどう輝かせていったらよいか、その課題に向き合うことが求められます。私たちがもう一度自分の信仰のあり方を見つめ直し、一人ひとり信仰を深めていく、そのような毎日していけたらと願います。神様の恵みと力を祈り求めたいです。
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