2023年9月24日 年間25主日
- カトリック戸塚教会
- 2023年9月23日
- 読了時間: 4分
マタイ20:01-16
イエス様は、天の国、神の国がどのような場所であるか指し示すためにぶどう園の主人のたとえを話されます。そしてこのたとえの中心となるメッセージは、朝から働いた人たちが、夕方1時間しか働くことができなかった人たちも1デナリオンもらえたことを一緒に喜んであげることができたらよかったということです。私たちを雇ってくださったぶどう園の主人は、夕方1時間しか働くことができなかった人たちにもその人が生活できるために必要な賃金を支払ってくださるあたたかい心の持ち主であると皆で思うことができたら本当によかった。しかし、その思いよりも朝早くから働いた自分たちがもっと多くもらえなければ納得できないという考えがまさってしまったということです。イエス様がこのたとえで伝えようとされるのは、ぶどう園の主人に表されている天の父である神様の寛大であたたかい心と、その神様の心を一緒に喜ぶ心なのです。
第一朗読のイザヤの預言の言葉の中にも「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。」とあります。「天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを高く超えている。」イエス様が示してくださる天の父の思いは、人間の私たちの思いをはるかに超えて大きくいつくしみ深いということです。そしてそのことを皆が感じて、一緒に感謝し喜ぶことなのだということです。
朝から働くことができた人が、自分たちは朝から働くことができる恵みをいただいて、そして1日働いた者が受けるに十分な賃金もいただくことができた。まずそのことに感謝し、いろんな事情で働くことができなかった人々の苦しみを理解され、その人たちにも十分に報いてあげようとされる父なる神様のなさり方を賛美すべきなのです。
私たちはこの場面を自分に置き換えてみた時、どちらの態度を取るでしょうか。朝から働いた人と夕方から働いた人が同じ賃金では割に合わないという思いから抜け出せないで、神様に賛美を捧げることができないという立場でしょうか。でも、もし自分を夕方から雇われた労働者の一人として考えたらどうでしょうか。かつてマザーテレサは次のようなことを言われたことがあります。それは「この世で一番の不幸は、病気や貧しさ以上に自分が必要とされていないと感じること」だということです。私たちの人生には様々なつらいことがあります。病気もつらいし、貧しさもつらいです。でも、そのつらさ以上に自分が必要とされていないと感じることがもっとつらいということです。神様はそんな人間のつらさに目を向けてくださる方です。誰も雇ってくれる人のいない人の苦しみに無関心ではおれない方なのです。イエス様はこのたとえ話でそのことを表そうとされたのだと思います。
人によってできる働きはちがうと思います。仕事の内容も人によって様々でしょう。でも人がどれだけ働くことができるかを超えて、神様はもっと大きな心で豊かな恵みを一人ひとりに与えたいと思ってくださっているということです。そのことに私たちが目を向けていくということだと思います。当たり前のように行っていることが当たり前ではないということ。今日、生きる時間が与えられたことも当たり前ではないこと。
イエス様が話されるたとえの中心はいつもご自分の父である天の神様の姿でした。その天の父である神様の姿と心を思って、一人ひとりが自分のあり方を振り返ることをイエス様は望まれました。人間が用いる計りや常識が全てであると言えないのかもしれません。もっと大きな計りと常識が父である神様の心なのだと思います。
私たちがいつもその天の父に向かって歩んでいくように。そして天の父が持っておられる寛大であたたかい心を私たちも持って生きていくように。私たちが神の国の住民として受け入れられるために、天の父と同じ心になることが求められます。
「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という言葉は、神様のなさり方と思いは、必ずしも人間のやり方と思いとは同じではないということを示しています。神様は人間がどれだけ働いたか、その働きの量や大きさのまえに、一人ひとりが人間としてかけがえのないものとして大切にされること、必要な恵みが行き渡り、分かち合われることを望んでおられると思います。どんな人でも、まず人間として十分に食べる事ができることを神様は望まれます。どんな人でも生きるために食べ物が与えられること、そして寝る場所と着る物が必要です。神様はそのことをいつも心にかけ、それが実現することを願い続けておられるのだと思います。私たちがその神様の思いをもっと心に留めて、神様のよき道具として働いていくことができますように祈りたいです。
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