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2023年7月2日 年間13主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2023年7月1日
  • 読了時間: 6分

マタイ10:37-42


主日のミサではいつも3つの聖書箇所が朗読されます。そして最初の第一朗読と福音箇所はある共通のテーマで選ばれています。そして今日の共通するテーマはもてなすということです。イエス様は言われます。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」イエス様の弟子に対して、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人に、イエス様は報いを約束されます。それはイエス様から遣わされて働く弟子たちの使命が尊く、大事なものだからです。第一朗読で読まれた列王記では、預言者エリシャをもてなした一人の裕福な婦人が登場します。彼女はエリシャを引き止め、食事を勧め、小さな部屋を作ってもてなします。それはエリシャを聖なる神の人であることを認めているからです。その婦人に神様はエリシャを通して子どもを授けるという祝福を与えられます。神様から与えられた使命を果たす人をあたたかく迎えもてなすこと。それは神様の思いにかなっているということです。


今日、私たちは福音を通してイエス様の言葉を聞きました。イエス様は言われます。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」このイエス様の言葉をどう受け取ったらよいでしょうか。誰にとっても家族は大切なものです。イエス様がおっしゃっているのは、その家族を愛さなくてよいということではありません。イエス様がおっしゃりたいのは、家族以上に一人ひとりがイエス様との関わりを大事にしなさい、なぜならイエス様との交わりを生きることが真の命を生きることになるからです。もし親がいて子どもがいるなら、親は子に誰よりも第一に神様を大切にすることが大事だということを伝えるべきです。そして自分たち家族は皆で神様を大切にする家族として生きることを決意することです。私たちは家族としてその意識、決意が十分ではないかもしれません。神様に心を向けるのは、自分たちが困った時や力を必要とする時だけで、自分の力で十分生活できる時は神様の存在を思い出さない、そんな態度を取ってしまっています。しかし私たちが生きるべき生き方は、第二朗読のパウロのローマの教会への手紙にあるように、私たちが洗礼を受けたのは、キリストと共に新しい命に生きるためだということです。


イエス様は「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言われます。イエス様のために命を失うとは、自分を第一にせず、自分の思いよりもイエス様の思いに聞き従う生き方をすることです。それによって人々からばかにされたり、人々からの無理解に苦しむことになっても、いつか必ずイエス様の復活の命に与り喜びに満たされる日が必ず来ることを信じて生きることです。イエス様は続けて言われます。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」イエス様につながって自分の人生を歩む時、大きな苦しみを経験する。しかしその苦しみが大事なのだということです。多くの人が十字架のない人生を願うために教会を訪れたり、洗礼を希望するということがあるかもしれません。しかし神様のお考えは、私たちがイエス様を見つめ、イエス様と共に一人ひとりが担うべき十字架を担って歩むことなのです。


イエス様御自身は神の子として天の父から遣わされてこの世に来られました。それは罪の状態に縛られて不自由さの中であえいでいる私たちを引き上げ、救いへの道に連れ戻すためでした。そしてその究極の業が十字架上で御自分の命を捧げることでした。何もあのようなむごい苦しみをお受けになられなくてもと私たちは感じてしまいます。十字架なしで救いの業をなさればよかったのに。神の子であり救い主である方が苦しみを受けて死ぬということなど弟子たちも含めて誰も想像しませんでした。でもイエス様はそれをなさいました。そしてイエス様は私たちにも自分の十字架を担ってイエス様の後に従うことを望まれます。誰にも人生を歩む上で十字架がある。でも十字架は大切なのだ。その十字架の大切さを私たちはどう受け止め自分のものにしていったらよいでしょうか。


私は以前、木でできた握りしめて祈るかたちの十字架を手にしたことがあります。手のひらでちょうど握りしめることができるように作られている木の十字架でそれをぎゅっと握りしめて祈っていると何かを感じます。たとえば病気で入院することになったとしても、病院のベッドの上でぎゅっと十字架を握りしめて祈る。またいろんな苦しみに出会うとき、十字架を握りしめて祈ってみる。それを通して不思議と力をいただくことができる。苦しみや困難に負けないで生きることができる。十字架を受け止めて生きることの大事さは理屈で説明できることではないかもしれません。でもそこにイエス様が教えてくださった真の命を生きる大切な鍵があるということです。


教会はこの十字架を信仰の中心としていつの時代も大切にしてきました。私たちの生活の中にも、引き受けたくない物事がたくさんあります。でもその多くは避けて通れない、自分が背負うしかないもの、理不尽に思えても変えることができないものです。それを受け入れることは簡単ではないでしょう。苦しみも伴います。それでもイエス様を見つめて祈りたいです。祈りを通してイエス様に近づき、真の命と切り離すことができない十字架を見つめていきたいです。


つらくてどうしようもないとき、一歩も歩めないと思うときは、十字架に上げられたイエス様の姿に目を上げましょう。苦しくてどうしようもないその思いを十字架上のイエス様にうちあけましょう。イエス様はきっとわかってくださいます。そして答えをくださいます。イエス様は単に力に満ち、力ある業と奇跡だけを行うためにこの世に来られたのではありませんでした。最後はぼろぼろになり、小さき姿となって歩んでくださいました。私たちが信じ、希望をもって心を向けている方は、苦しみの重みを知っておられ、それを救いへと変えてくださる方です。


どんなに苦しいことがあっても、十字架を担って歩まれたイエス様の姿を思い出し、その姿を思って生きていきましょう。神様が私たちに求められるのは、苦しみが無くならなくても神様を見つめ、生き続ける。苦しみが無くなるから神様に心を向けるのではない。神様を信じて生きることは自分にとって苦しみ、十字架が伴う。それでも自分は神様を信じてついていきたいと思う。それが本当の信仰です。


 
 
 

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