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2023年3月19日 四旬節第4主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2023年3月18日
  • 読了時間: 4分

ヨハネ09:1-41


私も司祭として働いていますが、司祭という存在も時にファリサイ派や律法学者のような態度をとってしまう危険があると思います。教えること、導くことに力が入りすぎて、一番大事な慈しみと憐れみを忘れてしまうということです。そして苦しんでいる人、病んでいる人の痛みを共感できなくなってしまうことがあります。でも、一番大事なことは、教える知識ではなく、慈しみや憐れみ、また人の心、思いを感じ取る心の姿勢だと思います。聖書に登場するファリサイ派や律法学者の人達は、掟に関する知識は相当なものだったでしょう。でも人の痛みや悲しみに対してはどうだったでしょうか。


今日の福音で生まれつき目が不自由だった人がイエス様によっていやされる場面が描かれています。目が見えなかった人が見えるようになる、その喜び。それは体験した人にしかわからないものかもしれません。でもそれはきっと言葉に表せないほどの大きな喜びであることはわかります。しかしファリサイ派や律法学者達にとっては、そのいやしが掟に適ったかどうかが大切で、その人が抱えてきた今までの人生の苦しみ、悲しみ、痛みまでは目が向いていないのです。今喜びに満ちて一緒に喜んでほしいと思っているこの人と共に喜ぶことをしないのです。慈しみと憐れみを忘れてしまった人の姿がここにあります。


この目をいやしてもらった人は言います。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そしてわたしが洗うと、見えるようになったのです。」イエス様の言葉を通して大きな神の力が、この人の上に働きました。そして「見えない」状態から「見える」状態に移りました。この「見えない」状態から「見えるようになる」ことは、ただ肉眼の目のことだけでなく、本当のことが見えていない状態から、最も大切なことが見える状態になるということも意味しています。最も大切なことが見えていないなら、光を失い深い闇の中を歩んでいるのと同じだということです。道が見えない。どう生きたらよいかがわからない。自分の中で心の光が消えかかっている状態。自分の今の状態を素直に見つめて、もう一度神様に心を向けてみる必要が誰にでもあります。闇の中を歩んでしまっている自分を感じるならそれを神様に素直に表し、それを祈ってみる。光をお願いしてみる。もしかしたら神様からの答えは自分の願い、思いとは違うかもしれない。もっと自分がチャレンジしていくことを神様は望まれるかもしれない。神様は私たちの悲しみ、痛み、苦しみ、私たちの存在すべてを理解し受け止め、そして私たちが真のいのちを取り戻すために大切な働きかけをしてくださいます。


いやしということばがありますが、真のいやしの意味はいのちを回復するということです。いのちを取り戻すこと。いやしは単なる失われた肉体の機能の回復ではありません。心が死んでいた状態から真に生きる状態へと移されることです。この生まれつき目が見えなかった人は、イエス様との出会いを通して、今までの自分の殻から抜け出して、これから自分の足でしっかりと歩んでいくようになったと思います。彼は自分の中に強さを持ちました。その強さとは誰も否定することができない自分自身が経験した、味わった体験です。イエス様が自分に対してしてくださったこと。その慈しみの業。それが彼自身のかけがえのない体験になりました。彼はファリサイ派や律法学者達から追い出されます。でもイエス様から「あなたは人の子を信じるか」と言われると、「主よ、信じます」と言えるようになります。彼の本当の強さは「信じる」ことができますと言えるようになったということです。


私たちも自分の人生、そして日々の出来事を信仰の目で振り返るなら、きっとそこに神様の働きを見出すことができます。私たちの方が無意識であっても神様を体験しています。イエス様と出会っています。それぞれ自分の体験を思い起こしたいです。信仰の目で自分の体験を振り返ってみること。信仰はやはり体験が大事です。そして自分の小さな体験や出来事の中に神様の働きを見つけていき、偶然ではなく、計らいと恵みが実はたくさんあることに気づいていくこと。一つひとつの出来事をていねいに見ていくこと。そして私たちもこの目をいやされた人と同じように「主よ、信じます」と高らかに、そして心から言える人になりたいです。自分の中に、自分ならでは体験の中にしっかりとイエス様の存在を認め、「主よ、信じます」と言うことができること。それが本当の救いです。






 
 
 

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