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  • 執筆者の写真 カトリック戸塚教会

2023年2月12日 年間第6主日

マタイ05:17-37


第一朗読で読まれた旧約聖書のシラ書は、紀元前2世紀頃に書かれたものです。そしてそのころのイスラエルは、他文化の影響を受け、伝統的な価値観や宗教心が失われる危機を抱えていました。人々は神様よりも人間の経験や知恵、自分たちの判断を重んじるようになっていました。でもイスラエルの民の原点はあくまで主を愛し、契約を守り行うことにありました。主を愛し、その道に従って歩むことが真に求められる生き方でした。現代を生きる私たちも同じかもしれません。現代の文化の影響を受け、物質的、金銭的な富を求め、利己主義になり、慈しみの心を忘れて生きているかもしれません。


今日の福音でイエス様は言われます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである。」「それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」イエス様が完成されるものとは、神様の思い、望みがこの世において実現されることです。そしてそれはこの世に愛と憐れみが隅々にまで行きわたることを意味します。律法の精神を短くまとめるなら、それは神と人を愛することです。そしてその根本的な態度として、私たちが慈しみに満ちた存在になっていくことが求められます。私たちが慈しみに満ちた存在になる。そのために自分を与え、自分に死ぬことも求められる。それでも神様が望まれるのは、それを受け入れ、歩むことです。


私たちは誰もが真の命を得ることを願って教会を訪れていると思います。でも、その命は単にじっと待っていて与えられるものではないということです。イエス様は私たちに生きること、イエス様が望まれる歩みを歩むことを望まれます。そしてその生き方が私たちに真の命をもたらすのです。私たちは皆、誰もが願いを持っています。でもなかなかそれが思うように実現されないとの思いも持っているでしょう。その時、私たちは見つめ直したいです。自分はただじっとして願っていることが与えられるように祈っていないだろうかと。私たちが本当に願っているものは、生きる歩みの中で得られるもの、感じ取っていくものです。この私に今一番必要なことは何だろうか。神様は何を望まれているだろうか。それを祈りの中で深く見つめることです。私たちはたくさんの願いを祈りとして神様に捧げています。でも私たちが真の礼拝として神様に捧げるべき祈りは、この世に神様の思いと望みが行き渡ること、そのために自分も神様の思いを生きることができるようにその力を祈り求めることです。


イエス様は弟子たちに言われます。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない。」イエス様が求められる律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっている義、天の国に入るために求められる義とはどのような義でしょうか。義とは正しいことの意味です。神様が持っておられ、私たちにも生きることを求められる正しさ。神様はかつてモーセを通して人々に十戒を与えられました。その十戒の掟は、救われるためというよりは、救われた者がその救いの中にとどまるために神様が求められた生き方をまとめたものです。「真の神様だけを礼拝しなさい。父と母を敬いなさい。盗すんだり、殺したり、人が持っているものをほしがったりしてはならない。」イエス様はこれに合わせて、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟にばかと言う者は、最高法院に引き渡され、愚か者と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」と言われます。そして兄弟と仲直りすること、訴える人と和解をすることの大事さを述べられます。これらはみな、私たちが救いの中にとどまるために必要な事だからです。私たちはなかなか神様の思いのようには生きることができていないかもしれません。仲直りすること、和解することが簡単ではないことを私たちは皆経験から知っています。だから祈って力を願うことが大事なのだと思います。神様のみ旨に適うことを実行できる力を祈り求めていくこと。私たちがただ自分の願望を神様に伝えるのではなく、神様の思いを知って、それに応えていくことができるように、その力をいつも祈り、神様に心を向けていくことです。


今日の福音の言葉を聞いて一人ひとり自分のあり方に結びつけて見つめ直していきたいです。今日の福音のイエス様の力強い言葉は、私たちにとってどれもチャレンジとなる言葉です。簡単に聞くことができるものではないでしょう。それでもイエス様がこれらのことを話されたその思いと心に触れることができるように祈りましょう。私たちがただ自分の願いだけを祈るのではなく、イエス様の思いに応える力も祈らなければとそう思います。

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