ヨハネ01:29-34
「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」。ヨハネは自分の方へ近づいて来られるイエス様を見てこう言います。「世の罪を取り除く神の子羊」、この言葉に示されていることは何でしょうか。まず子羊という言葉。子羊は屠られていけにえとして捧げられるために使われる動物でした。そして世の罪を取り除く神の子羊ですから、それはこの世の罪、人間の罪を取り除くために屠られいけにえとして捧げられることを意味します。つまり、神の子であるイエス様が私たちの罪を取り除く、償うためにいけにえとして捧げられる子羊になってくださるということです。それがイエス様のお姿であるということです。そしてそれはまさにイエス様が受けてくださった十字架の死を意味します。
私たちはイエス様の十字架の死が私たちの罪を取り除くための死であったことは、知識としては知っています。しかし、現実としてそれがこの自分とどうつながっているのか、イエス様の十字架の死とこの自分がどう関係しているか、イエス様の十字架の死がなぜ自分の罪を取り除くことになるのか、こういうことになると、誰も正確にその真の意味を説明できる人はいないのではないかと思います。神様が一方的に表してくださった救いの業がイエス様の十字架の死であったということです。私たちはそのことを、一度に理解するのではなく、自分の人生の歩み全体を通して少しずつ心に刻みながら受け止めていく真理なのだと思います。そしてそこに示される真理は、私たちの思いをはるかに越えて神様がなさった究極の救いの業なのだと思います。
多くの人は、イエス様の十字架に架けられたお姿を目にしても、それが自分のためでもあったとか、そのイエス様の死によって自分も贖っていただいていることを心の奥底から受け止められる人はそう多くないと思います。それでも神様が私たちに望まれることは、尊いイエス様の十字架の死がこの自分自身と深くつながっていることを心に留めていくことです。神様が望まれるのは、私たちがこのイエス様を大切にして、イエス様としっかりつながって日々を歩むことです。そのために自分ができること、イエス様が喜んでくださることを心に留めて日々の生活を送っていくことです。
パウロはコリントの教会に向けた手紙の最初の部分で、自分が神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったことを伝えます。この神から召されたということが大切です。パウロの召し出しは、パウロ自身が望んだというよりも、神が望まれ、パウロを使徒として用いるようにされたということです。そして召された者は、自分の意志ではなく神様の思いを第一にします。
預言者イザヤも言います。「母の胎にあったわたしを御自分の僕として形づくられた主は、わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」。イザヤはイスラエルの民をただ連れ戻すだけでなく、イスラエルの民の心を神に戻す使命を受けます。パウロもイザヤも、自分の考えを越えて神様が自分を召されて、神様の望みを果たすように送り出されたことを心に刻みます。大事な事は、自分の思い、考えではなく、神様の思い、望みに自分を合わせて遣わされるということです。パウロもイザヤも多くの苦難を経験します。誰も耳を傾けないことも味わいます。それでもこの二人は、自分が今あるのは神様がこの自分を選び遣わしてくださったその神様の思いのおかげであることを忘れません。
私の場合はどうだったのかなと思います。自分が司祭への道を歩み始めたのも、同じように不思議な神様からのうながしと御計画によるものであると感じます。常識や人間の知恵だけで判断するなら決して誰もこの道を歩もうとはしないでしょう。失うことの方が多い道としてしか受け取らないでしょう。それでも神様はそのような生き方、歩みを通して導かれます。
イエス様も私たちの罪を取り除き、救いへの道を歩むことができるようにするために、御自分の全てを投げうって捧げられました。そして失うことによって本当に大切なものを得る生き方を示してくださいました。私たちはその方を自分の中にしっかり保って歩むことを決意した者の群れです。
私たちも改めて神様の望み、呼びかけが何であるか一人ひとり心で思いめぐらし、それが自分を失うことであっても、自分に死ぬことを通して真のいのちを生きることが救いにつながる道であることを心に深く刻みたいです。その私たちの歩みをイエス様が共にいて支え導いてくださいますように。私たちの人生が神様に向かって真の喜びに与るものとなることを心から願いたいです。
Comments