ヨハネ01:6-8、19-28
待降節第3主日は伝統的に「喜びの主日」と言われています。それは「主にあって喜べ。重ねていう、喜べ。主は近づいておられる」その喜びを意識するということです。今日の福音では、洗礼者ヨハネの姿が描かれています。洗礼者ヨハネは、自分はメシアではなく、そのメシアを証しする者であることを告げます。洗礼者ヨハネは、メシアであり光である方を証しします。その方は神の子である主イエスです。
私たちの信仰は、この光である主イエスを証しするその信仰の証しによって受け継がれてきたものです。それは単に知識で伝えられてきたのではなく、神様が私たちと共にいてくださること、私たちと共に歩んでくださっていることを一人ひとりが自分のものとして体験し、証しし続けてきたということです。私たちがこの現代社会の中で問われていることは、この神様が共におられるということをどのように証ししていくことができるかだと思います。神など存在しない、または全く無関心で人間的な思いだけで生きてしまっている、そのような社会の中で神様を信じて歩んでいくとは自分としてどう証ししていくことだろうか。そのことを大事に見つめるということです。
洗礼者ヨハネが証しした光、その光は貧しくても素朴にそして心から神様を呼び求めていた人たちに輝きました。人間に向かってではなく、神様に向かって心の叫びをあげていた人たち、自分の無力さ、弱さをよく見つめていた人たち、心から神の子の到来を待ち望んでいた人たち、そのような人々の側に神の独り子は誕生されます。クリスマスを迎える前にやはり私たちに大事なことは、自分の中の弱さ、貧しい部分、飢え渇いている部分、そして社会の中にある飢え渇きをよく見つめることです。
神の独り子は、旅の途上の貧しい馬小屋で誕生されました。それは人間の抱える重荷と苦しみを共に分かち合おうとしてくださる神様の心が表わされたからです。私たちはなかなか自分を変えることができません。自分の思いだけでは生き方を変えることができません。しかしそこに何かあたたかさに包まれる体験があるなら、私たちは自分を変えることができます。神の独り子の誕生で表わされていることは、神様の方がへりくだり、私たち弱い人間と同じ姿になって神様の方が私たちの側に近づいて来てくださったということです。神様が自分を受けとめてくださっている。そして私たちの人生の歩みを共に分かち合おうとしてくださっている。そのことをお示しになるために神の独り子は私たちと同じ現実の中に、それも貧しさを身にまとうかたちでお生まれになりました。
私たちの中には、イエス様が来られたのに、そして今も働いてくださっているのに、どうしてこの世界は未だに闇の部分が消えてなくならないのだろう。どうして多くの苦しみがあるのだろう。そのような思いがたくさん私たちの中に起こります。私たちも時々わからなくなったりします。神様が共にいてくださっているって具体的にはどういうことなのだろう。また死を越えた永遠のいのちに与る希望があることと、そこに向かって歩む中で味わう苦しみの意味、そしてその歩みをイエス様も共にしてくださるって実際にはどういうことなのだろう。そのような思いが私たちの中に起こります。手に取るように神様の存在を味わい、イエス様のお姿を実感したい。そのような思いが誰の心にもあるでしょう。
どうしたら、私たちがもっと神様の心、呼びかけ、うながしを感じ取ることができるでしょうか。そして神様が共にいてくださるその慈しみとあたたかさを感じ取っていくために何が大切でしょうか。それは、私たち一人ひとりに問いかけられています。そしてその答えはきっと受け身の態度では与えられない、自分の方からイエス様に近づいて、心を向けて初めてわかるものなのだと思います。
主の降誕の場面でも、羊飼いたちも天使の呼びかけに応えて、イエス様が誕生された場所を訪ねて行きました。東方の3人の博士たちも、遠い東の国から、光輝く星を手掛かりに、長い旅を続けてその場所を探しあてました。そのように自分も一歩自分の枠から抜け出して、歩み出してみる。その歩みが決して無駄にならないことを信じてみる。そのような歩みの中に、きっと神様が共にいてくださることを感じ取る鍵が隠されているのだと思います。
待降節も三番目の主日を迎え、今年も主の降誕のお祝いの日が近づいています。そしてそのための本当の準備は自分と神様とのつながりをより強いものにしていくことです。神様は私たち人間の想像や思いを越えて大きな心ときめ細かい心を持っていてくださる方です。人生の中で味わう様々な苦しみの中で、神様にしかもたらすことができない喜びがあることを、私たち一人ひとりが感じ取ることができますように祈りたいです。そして、今年も迎えるクリスマスの日が、本当の喜びの日となれますように願います。
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