マタイ23:1-12
「祭司たちよ、今あなたたちにこの命令が下される。もし、あなたたちがこれを聞かず、心に留めず、わたしの名に栄光を帰さないなら、と万軍の主は言われる。」これは第一朗読のマラキの預言の中の言葉ですが、どういう事を表しているかというと、当時祭儀を司っていた祭司たちの捧げる祭儀がかたちばかりのものになっていて、そこに熱心さは見られず、おざなりな祭儀が捧げられていたということです。なぜそのように祭儀が形骸化してしまったのでしょうか。人々はバビロン捕囚の苦しみから解放されて自国に戻ることができ、苦しい生活の中にありながらも神殿を再建することに力を尽くしました。人々にとって神殿を再建するとは、自分たちが神様を第一にし、大切にしていることを表すためでした。そして神殿を再建したらきっと神様が自分たちの思いと願いを心に留め、それに応えてくださることを信じました。しかし、現実は相変わらず他国からの支配が続き、恒常的とも言える飢饉はいっこうに改善されませんでした。そのような状況の中にあって人々の神様に対する信仰の熱意は弱くなっていき、祭儀も形骸化し、かたちばかりのものになってしまったということです。
神様が自分のたちの思いに応えてくださるから、神様を礼拝するといういつの時代にも見られる条件付きの信仰。神様を信仰するのはあくまで自分たちの思い、願いが適うためとする自分中心の信仰。この信仰の態度はいつの時代にも見られるものかもしれません。神様を信じ、礼拝を捧げたら、神様は自分たちの願いを適えてくださる。それが信仰の動機になっている。でも、実際神様が自分の願いと思い通りに何でもしてくださるかと言えば、そうではないと思います。逆に神様に聞き従い、正しい生き方をしている人々が大きな苦しみや重荷を背負っているという現実もあります。信仰や正しい生き方が必ずしも人間が考える幸せとは一致しない事があります。そういう意味で私たちの人生の歩みは簡単ではないと言えます。
今日の福音のイエス様の言葉の「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」ここにイエス様を通して示される天の父の思いが集約されています。仕える者になるとは、人の下になるということです。自分を低くするということです。でもこれはこの世で幸せとされる人生の価値の反対を示しています。自分を高く見せ、人から評価されることこそこの世の価値とする捉えかたが私たちの世界にはあります。お金に不自由せず、豊かさを味わい、何でも思いの通りになる生き方に価値を置く生き方です。
でも、私たちが目を向けなければならない方は、神の子としてこの世に姿を表してくださったイエス様です。天の父はイエス様を十字架に送る事をなさいました。仕えられるのではなく、自分を与え、人間の下になる生き方を望まれました。そしてイエス様はその天の父の思いに従われました。人間を真に生かし、解放するのはこの世の人間が持つ価値感とは異なることをはっきりとお示しになりました。そしてそれを受け入れない人間のために徹底してひりくだってくださいました。
私たちがイエス様の言葉「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」を実際に生きるためには、やはりイエス様を仰ぎ、イエス様につながり、徹底してイエス様に願うしか方法はありません。イエス様を信じ、そのためにイエス様と日々語り、その中で本当に必要な力をイエス様に願っていくことです。
現代を生きる私たちの中で、どれくらいの人がイエス様に仕える生き方ができる力を願っているでしょうか。教会に来るのも、ミサに参加するのも、全て自分の願いのためとする生き方からどうしたら解放され、イエス様が教えてくださる生き方ができるようになるでしょうか。その鍵となるのは、私は一人ひとりのイエス様との親しさを深めていくしかないと思います。
今日の福音でイエス様から批判された自分を高く見せることに終始した律法学者やファリサイ派の人たち。そのために神様に目が向かわなかった人たち。彼らは人々からの喝采や、尊敬を受けることに目が向かい、本当に大事なことから逸れてしまいました。
私たちは、神様がお考えになる正しい生き方と、人間が考え望む生き方が必ずしも同じではないことをまず認めるべきです。苦しみのない、何の問題もない生き方をただ願うのではなく、イエス様が示される、へりくだって人にそして神様に仕える生き方を大事にしていきたいです。そしてそのために毎日イエス様に心を向け、イエス様に呼びかけ、語りかけ、イエス様と共にへりくだって仕える生き方ができるようにその力を願っていきたいです。
ある人が、神様にお願いするのは悪い祈りですよねとおっしゃったことがあります。私は、神様には何でもお願いしてよいと思います。しかしその祈りの中にイエス様が望まれることを実行する力を願う祈りも忘れないようにしたいです。
ミサに参加するために教会を訪れる時、聖堂の入り口でイエス様に向かって、今日私はイエス様にお会いするために、自分がイエス様を大切にしていることを表したいと思ってここに来ましたとお伝えしましょう。そのような私たちの意識をイエス様はどれ程喜んでくださるかと思います。それを通して真の平和に私たちも与ることを願いたいです。
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