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  • 執筆者の写真 カトリック戸塚教会

2023年11月12日 年間32主日

マタイ25:01-13


私たちが住む日本の社会は、宗教の言葉が力を持たない世俗化した社会になったと言われます。聖書に示されている神の知恵も、多くの人はそれを悟ろうとしていません。確かに聖書の言葉を読んでも、そこに示される意味をつかみきれないという感想をよく耳にします。確かにその通りかもしれません。そして私たちにとって簡単に答が出せない人生の問いの一つは、死に向かう人間の生に意義があるのか、あるとしたらそれはどのような意義なのかという問いです。信仰を持たない人々にとって、死んだら終わりであるという捉え方が主流です。また亡くなった後の事はどんなに頭を働かせても言い表すことはできないのだから、そのような事について考えるよりも今をどのように生き、それも自分にとって意味のある生き方を全うすることに専念するというのが一般の人々の考え方だと思います。


私たちはイエス様が十字架の死で終わらず復活されたことを信じています。そしてそれはイエス様だけでなくイエス様を信じる全ての者も同じように復活するということです。でもイエス様と同じように復活すると言われても一体この身に何が起こるのか、それが必ずしも希望にはならないというのが多くの人々の反応かもしれません。死を超えた永遠の命の世界があること、それを思って今を大事に生きる。そのために神様との親密な交わりを大切にする。これらのことをどう自分が受けとめ毎日の具体的な生活の中で実現していったらよいか、これは大事な問いかけです。


人間がこの世で生きる意味を問うこと。これは古今東西を問わずずっと問い続けられてきた問いです。そして人々は神様の言葉の中にその答えを見出そうとしました。そしてそれを神様の知恵として表現しました。そしてその神様の知恵はイエス様の話された言葉に集約されます。今日、私たちが聴いた10人のおとめのたとえもそれを表しています。このたとえ話を聞いた人は、どうして油を用意していたおとめたちが油を用意していなかったおとめたちに油を分けてあげなかったのだろうかと思います。賢いおとめたちは確かによく準備して予備の油を用意することも怠りませんでした。でも愚かなおとめたちはそこまで気がまわらなくて、油を用意することを忘れてしまいました。でも愚かなおとめたちも、悪気があって忘れてしまったのではなかったと思います。そこまで気がまわらなかったということでしょう。もし花婿が遅れることなく時間通り到着していたら、愚かとされたおとめたちもちゃんとともし火をともして花婿を迎えることができたでしょう。


イエス様は今まで教えのなかで「互いに愛し合うこと、助け合うこと」の大事さを何度もおっしゃってきました。だから、油を分けてあげなかった賢いおとめたちが取った行動はイエス様の思いに合わないのではないかなどの思いが私たちには浮かんできます。でも考えられることは、本当は油を用意していた賢いおとめたちはできることならどんなに油を分けてあげたいと思っただろうかということです。いじわるで油を分けてあげないのではない。でもこの油は分けてあげたくても分けることのできないそんな油なのだということではないかということです。人に分けてあげることができない油。一人ひとりが自分で用意しなければならない油。それは私たち一人ひとりのいのちとその人生を表しているのではないでしょうか。


一人ひとりのいのちと人生は人に分けてあげることはできない。一人ひとりが準備してよく考えて歩んでいかなければならない。人が代りに自分の人生を歩むことはできない。親が代りに子どもの人生を歩むこともできない。イエス様はこのたとえを通して、一人ひとりが自分の人生で準備しなければならない大切なものがあることを伝えようとされたのだと思います。イエス様は人々に世の終りが必ず訪れること、その時一人ひとり自分の生き方が問われることを教えられました。その中で今日のたとえ話をされました。当時の人々はその世の終りが訪れるのは遠い先のことではないと思ったかもしれません。でも現代を生きる私たちは、世の終りと聞いてもピンとこないしよくわからないというのが正直な反応だと思います。それでも誰にでもいつかこの世を旅立つ時が訪れます。ある意味で私たち一人ひとりにとっての人生の締めくくりとなる日です。


イエス様は神の子として天の父から遣わされて、私たちと同じ姿になってこの世に現われてくださいました。それは私たちをご自分の父、天の父のもとに導くために大切なことをお伝えになるためでした。そして天の父の心を伝えること、天の父が何を私たちに望んでおられるのか、どのような生き方をするように求めておられるのか、そのことを自らの言葉と行いで表してくださったのがイエス様でした。私たちはそのようなイエス様につながって歩む事ができます。イエス様の姿は、今は私たちが直接見ることはできません。でも目で見ることができなくても、イエス様は今も私たちの中にいて、私たちと共に歩んでくださっています。


今日のたとえ話のように、一人ひとり神様が求められる油を用意していくこと。そのような生き方をしていきたいです。そのためには、やはり日頃からイエス様に語りかけ、力を願い、共にいて共に働いてくださることを祈り願うことが大事です。私たちはイエス様とつながることなしに、永遠の命につながる生き方を生きることはできません。やはりイエス様が必要です。そのことを普段の生活の中でもっと意識して歩むことができたらと思います。そのことを共に心を合わせて祈りたいです。















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