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2023年10月29日 年間30主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2023年10月28日
  • 読了時間: 5分

マタイ22:34-40


私たちはどのような思いでミサに参加しているのかなと時々思います。そしてイエス様を大切にしたいから、その自分の心を表すためにこのミサに来たという思いを持つことができるならどんなにすばらしいかと思います。皆人間ですから、慣れっこになり、あまり意味など考えずにミサに参加することも、またただ自分の願いと祈りを神様に捧げるためだけに来たと思う人も多くおられるかも知れません。それでも私たちが少しでもイエス様を愛したい、神様の喜ばれる心をもって生活したい、その思いを祈るならどれほど神様はその祈りを喜んでくださることでしょう。


今日の福音でイエス様はまず第一に神様を愛することを話されます。なぜ神様を愛し大切にしなければならないのでしょうか。それは今ある自分が神様の恵みによるものだからです。この私の存在、人生は、自分の力によるのではなく、神様からのものであること。私が生きている以上に、神様から生かされ、導かれていること。神様に対する愛の必要性は、私たちがどれほど神様から恵みをいただいているか、その自覚、意識の深さによります。皆、正直に自分の人生を振り返るなら、きっとそこに神様の働き、支えがあったことを見出すことができるでしょう。その神様の私たちへの愛に気づき、感謝の思いを起こしていくこと、これが神様を愛することになります。


そしてこの神様を愛する愛は、自ずと隣人を愛することへ向かわせます。なぜなら私たちが隣人を愛することが神様の望みだからです。神様が望まれる隣人を愛する愛は、イエス様が話された善きサマリア人のたとえのように、自分の方から「隣人になっていく」愛です。自分に与えられた場と機会を大事にして、自分ができること、神様から自分に呼びかけられていること、そのうながしを大切にすること。それが隣人を愛し、神様を愛することになります。ヨハネの第一の手紙(1ヨハネ4:20-21)の「目に見える兄弟を愛さないものは、目に見えない神を愛することはできません。」という言葉を大事にしたいです。


イエス様は人々の心に訴え、全ての人をご自分の父である天の父のもとへ導く生き方を示してくださいました。そして多くの人々、特に苦しみや困難を抱えている人々、小さき人々がそのイエス様の呼びかけに耳を傾けました。しかしその一方で、祭司長や民の長老たち、ファリサイ派や律法学者といういわゆる民の指導者たちはイエス様を認めませんでした。せっかく神の子であるイエス様が真理を示し、導こうとしてくださっているのに、その呼びかけを素直に聞くことができない。あくまで自分たちが正しいと思い続ける。このような姿は、ファリサイ派や民の指導者たちだけでなく人間誰の心の中にも潜む悲しい闇の部分かもしれません。そしてその闇は現代を生きている私たちにもみられます。


イエス様は言われます。神様を愛すること、そして隣人を自分のように愛すること。これが最も重要な掟なのだ。民の指導者たちは、ある意味で自分たちも神様を愛し、人を愛しているという自負があったかもしれません。でも彼らの愛は、あくまでも自分を中心にした愛でした。神様に対して敬虔な態度で礼拝を捧げていたとしても、その敬虔な自分の姿を人に見せびらかそうと思ったでしょうし、人を愛することもあくまで自分と関係のある人たちに限っていたでしょう。イエス様が目を留められる苦しみや困難を抱えている小さき人々は彼らの愛の対象から外れていました。神様や人を大事にしていると言いながら、実際はその自分を一番に大事にしようとする態度。自分のやり方、考え方を変えることなく、あくまでの自分が一番であると思う態度。そのような人間が取る態度に対して、イエス様はご自分の姿で神様と人を大事にする姿を示してくださいました。神の子でありながら、自分を高く見せたり、人の上に立つことをなさらず、へりくだり、自分も小さき者の一人として、苦しんでいる人々の側に寄り添われました。イエ

ス様が大事にされたことはご自分も天の父の思いに従って歩む、ただそれだけだったのだと思います。自分が人々から崇められるとか、称賛を受けるということは心になかったのだと思います。


イエス様が示してくださった神と人とを愛する生き方ができるために、自分がまず先に神様から愛されていること、大事にされていることに気づく必要があります。愛の掟を決められた掟や義務として受け取るなら、決してその愛を生きることはできないでしょう。でも、もし自分よりも先に神様の方がこの私に愛を表してくださっていることに気づくことができるなら、その気づきが私たちの本当の愛の力になります。


自分の普段の生活をもう一度ていねいに振り返っていくとき、何気ないかたちで神様から守られていることに気づくことができます。自分にたくさんの欠点や落ち度があるにも関わらず、1日を無事に過ごすことができたこと。本当なら自分の過ちによってもっと苦しい結果を味合わなければならないのに、そうならずに済んでいること。何でも当たり前のように過ぎていることが、実は当たり前ではなく、神様の配慮によって事が進んでいること。私たちは、もう一度、神様の真の姿を思い描いていくことが必要です。自分の現実の姿を見つめると同時に、その中で私のために力を働かせておられる神様の姿を思い描いていくこと。そのことを私たちが大事にしていくなら、必ず神様の心にふれることができます。神様がこの私を支えてくださっている、この私のために働いてくださっている、この私を本当の幸せに導こうと道を示してくださっている。一人ひとり立ち止まって自分の具体的な生活の中で関わってくださっている神様の姿に自分の心を向けていきたいです。自分の具体的な生活の中で、神様の心を感じることができたとき、私たちの生き方は本当に変わると思います。愛は掟や義務ではなく、神様に対する私たちの心からの応答なんだと思います。神様がこのような心の方だから、私はこうしていきたい。このように歩んでいきたい。そのような思いが私たちの心からあふれ出ることができたらどんなに神様は喜んでくださるでしょうか。神様はいつでも私たちに愛を送り待っておられます。私たちが神様の愛に応えて自分を捧げて生きることを。







 
 
 

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