2022年9月11日 年間24主日
- カトリック戸塚教会
- 2022年9月10日
- 読了時間: 4分
ルカ15:01-10
私の好きな言葉に「人は人のやさしさにふれて初めて人にも優しくなれる」という言葉があります。人から怒られていろんなことを言われて生き方が変わるのではなく、何か人のあたたかさにふれて、自分も人に優しくしたいなと思うようになること。そんな風に変われること。私たちが聴くイエス様の言葉の多くは、私たちへの行いの呼びかけです。実際に行う事が大事だ。特に愛の心を表す行いが大事だと。そして勉強会やミサの説教でもそのような話が中心になります。でも同時に、私たちにとってもっと大切なことがあるのではと、私は今日の福音を読みながら思いました。私たちは行いの大事さを学ぶ以前に、この迷い出た1匹の羊を探し求める良い羊飼いの姿と、その心を知らなければいけません。イエス様が話されたこのたとえを理解できるかどうかは、このたとえの中の迷い出た1匹の羊はこの私なのだ、そう思えるかどうかです。そして善き羊飼いであるイエス様は、迷い出た私を見つけ出すまで捜し回ってくださる。そして見つけたら大喜びして友達や近所の人々を集めて一緒に喜んでくださいと言ってくださる。イエス様にとってはどの羊も大切で、その羊たちが真の命の道を歩むことを願われます。救い主であるイエス様とはそのような方なのだ。そのことを心から思うこと。それが大事です。落ちていくしかないと思っていた者に、谷底まで下りて、手を差し伸べようとされる。それが私たちの救い主であるイエス様の姿であり真の神様の姿であること。それを理解すること。毎回ミサで記念しているのは、そのイエス様の姿です。悔い改めの第一歩は、何か悪い行いを改めること以上に、このイエス様の姿に心の目を向けることです。行うことはとても大事です。でもそれ以上にイエス様の心を思うことがもっと大事だということです。
今日の福音の二つのたとえは、共に見失ったもの、無くしたものを見つけることができたから、一緒に喜んでくださいということです。そして大切な気づきは、探し回るのは私たちではなく、神様の方なのだということです。私たちは皆、神様の目から見れば罪人なのだと思います。そして罪とは、神様から離れて生きることを表します。自分ですべてを判断し、自分の力だけで生きていこうとする。その中でいつのまにか自己中心になり、人を裁いたり、傷つけたりする。でもそれは、決して私たちを幸せにはしない。私たちが気づくべきことは、人間は自分の力だけでは、正しい道に戻ることができないということです。自分の弱さを素直に認め、そこから神様に心を向けていくこと。そしてその神様は、私たちが想像する以上によい方で、心があたたかく、私たちのことを大事に思ってくださるということです。神様が私たちに気づいてほしいのは、その神様が持っておられる私たちに対する心なのです。
聖書が伝える「悔い改める」とは、何か正しい行いを行って神様に赦しを願い求めるということ以上に、いつも見失ってしまった私たちを探しまわっておられるその神様の姿、働きに気づいていくことです。ファリサイ派や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだして、イエス様のことを批判します。でも、イエス様が私たちに求められるのは、「一緒に喜んでください」、この人は今まで神から離れて自分中心で生きてきたがゆえに、群れから離れ、どん底に陥っていました。でも、いろんなことを通して、今、神の本当の心を知って、そのあたたかさに触れて、群れに戻ることができました。真の悔い改めとは、神様の本当のあたたかさにふれ、心が神様に向かうようになることです。教会は、その神様のあたたかさに触れ、神様に向かうことができるようになったことを共に喜ぶことができる人々の群れのことです。私たちはまだその状態にまで至っていないのかもしれません。依然として人を裁いたり、責めたりしています。私たちがそこから抜け出て、神様の真のあたたかさによってかたくなな心が和らげられ、互いを赦しあう心を培っていきたいです。そして互いを思い合う和が、少しでも広がっていくことを心から願いたいです。
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