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2022年8月14日 年間20主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2022年8月13日
  • 読了時間: 4分

更新日:2022年8月20日

ルカ12:49-53


皆さんはこの8月をどのように過ごされているでしょうか。私は今、いつもよりも少し自分の時間を取ることができるので、その時間を使って今まで取ってあった資料や記事などを読み返して整理することを行っています。そうすることで、埋もれていた資料や記事の中から大切なことを発見することができて心に喜びを感じています。その中で目に留まったものに次のようなものがありました。それは日曜日ミサに与るとき、その1週間のことを思い出して1週間の出来事の中でよかったこと、ありがたかったと思えることを何でもいいから心に留めてミサに与り、そのことを神様に感謝を捧げるということです。そのような習慣を毎週のミサで続けていったら、必ず自分の中に変化が生まれ、心が変えられて生活することができるということです。私たちはそのようなことをあまり心に留めずにミサに与っているかもしれません。でも、少し意識して、自分の1週間の出来事の中に感謝したいことを見つけて、それを神様に表していく。それを繰り返すことで、自分の生き方がより積極的になり、心の中にさわやかな風が吹き抜けていく味わいを感じていく。私は、それは本当だと感じます。私たちは誰もが心に思い、願いをもってミサに与っています。でもそれが必ずしも自分の願うようにはなっていない、いつも何か心にもんもんとするものを抱えている。そのようなことを繰り返していると正直感じる人は多いと思います。でもミサの中で神様に心から感謝を捧げることができるように、普段の生活を見つめ直し、日々見過ごしてしまっている出来事の中にある神様からの恵みをもう一度思い起こしてみる。そしてそれを、日曜日のミサごとに感謝を捧げていく。そうすることで心にさわやかさと喜びを味わうことができる。そのように自分が変わることができる。それは本当だと思います。


今日の福音でイエス様は、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と言われます。そして「その火が既に燃えていたらとどんなに願っていることか」と言われます。イエス様が言われる火とは、生き方、神様が私たちに求められる生き方のことです。その神様が望まれる火が、私たち一人ひとりの心に灯され、その火が広がっていったらどんなによいと願っているか。しかしそのために、イエス様は私には受けねばならない洗礼がある、それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろうと言われます。イエス様が受けられる洗礼とは、私たちの罪を贖い、天の父の元へとつながる救いへの道をもたらすために受けられる十字架の苦しみのことです。私たちが日々の出来事の中で忘れていけないことは、そのイエス様の苦しみは今も続いているということです。イエス様は、私たちを真の喜び、救いへと招き入れるためにこの世に来てくださり、私たちが歩む道を示してくださいました。救いはその道を走り終えた時に与えられる将来の約束です。


パウロはヘブライ人への手紙で言います。「こういうわけで、わたしたちもまた、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者、また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪びとたちのこのような反抗を忍耐された方のことをよく考えなさい。」イエス様御自身、神の子でありながら、その身分に固執しようとはされず、私たちのために、へりくだって、ぼろぼろになって十字架を背負う道を歩んでくださいました。そしてその捧げた苦しみが決して無駄に終わらず、救いの喜びへつながっていくことを示してくださいました。十字架の道を歩まれたイエス様から目をそらさず、一人ひとりとどまるべきものをしっかり見つめて、この人生を歩み通していく。イエス様について行こうとする時、そこに必ず妨げが生じ、それによって対立や分裂が起こることがあります。イエス様に従う人とそうでない人との間で対立が起こります。イエス様は、平和をもたらす信仰の火を投ずるためにこの世に来られました。しかし、人々の持つゆがみのゆえに、この火は人間が神様から離れている姿を明らかし、人間の間にある対立、分裂を指し示す火になりました。このような場面を自分に置き換えてみて、自分は今どう歩むことができているか、自分にとってイエス様の存在が、本当の平和と喜びに導くものになっているか、それとも自分のあり方が神様から離れていることを明らかにするものになっているかよく見つめることが大事です。


普段の生活を、よりイエス様を身近に感じ、イエス様がもたらされた愛の火を燃え上がらせてゆくものにしていく、そして普段の出来事の中に、神様からいただいた恵みを見いだして感謝を捧げていく、そのような人生の日々を歩みたいです。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火がすでに燃えていたらとどんなに願っていることか」。このイエス様の心がわかる人になっていきたいです。





 
 
 

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