ルカ10:01-9
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」これは私たちがよく聞いてきたイエス様の言葉です。そしてこの言葉を神様のために働く人が少ないので、召し出しのために祈らなければならないと受け取る人も多いと思います。でも、このイエス様が話された時の状況を見ると、この収穫のために働くのは人間ではなく、神様御自身であることがわかります。イエス様は72人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされます。そしてその中で彼らに「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と言われます。イエス様から遣わされる72人がまず願うべきことは、自分たちを通して主である神様御自身が働いてくださることです。宣教の働きは、決して人間が自らの力を持って行うものではなく、あくまで神様が人間を通して行ってくださる活動だということです。そして人間は神様の働きの手足になっていくことです。
弟子たちは、神様から「行きなさい。わたしはあなたを遣わす」という言葉を受けます。弟子たちの心構えは、自分たちは主から遣わされていることを自覚することです。自分たちの後ろには自分たちを遣わされた主がいてくださり、支えてくださっている。そして彼らが伝えるのは、自分が得た知識ではなく、神様が存在しておられることと、その神様が今も私たちの中で働いておられるその神様の姿そのものです。私たちも自分も信仰を伝える大事な役目があることを思う時、その信仰を伝えるとは、自分が感じている神様の存在とその働きを伝えていくことです。神様の存在、働きを忘れて、人間的な知恵や知識で宣教しようとしても決してよい結果は得られません。今、教会の将来が危ぶまれる状況にあって私たちが願わなければならないことは、主が私たちを通して働いてくださるその働きを私たちが感じ取っていくことです。
イエス様は、宣教の働きが「狼の群れに子羊を送り込むようなもの」であることを知っておられます。だからこそ、真の宣教の担い手であるイエス様に心を向け、イエス様が働いてくださることを思い起こさなければなりません。「財布も袋も履物も持って行くな。」という言葉も、何も持たないで出かけなさいということより、イエス様の手足として自分を差し出した者に対する神様からの絶対的な配慮があることを意味しています。ここで私のことを例にあげてみれば、実際に自分の今までの歩み、そして特に今の自分の生活を振り返ってみて、この自分に神様からの御保護と配慮があることを実感することができます。私は今、この教会が自分の生活の場になっています。不思議なご縁で2020年にこの教会に赴任することになりましたが、寝るための部屋があり、着る物も食べ物も困ることがないように配慮されています。私はこちらに来て初めて自炊をするようになりましたが、それも苦にならず楽しくこなしています。そして現代的に言えば家賃も光熱費もいらずに生活できていること、生活に必要なお金は与えられていること、たとえ病気をして病院通いをすることになっても、また急に亡くなることになったとしても、すべては神様が計らってくださることを実感します。そしてそのことをとても有難く思います。神様は御自分の働きに対して忠実に自らを差し出す者への手厚い配慮を忘れられません。
その神様の配慮のうちに自分を差し出して生活する者がすべきことは「この家に平和があるように」とあるように、人々の真の平和を願うことです。この平和、ヘブライ語のシャロームとは、完全に満ち足りているという意味です。単に戦いや問題がないということではなく、神様がもたらされる真のいのちに満ち足りている状態を表します。その真の平和がすべての人、そして家庭に実現するように願って歩みなさいということです。「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」「平和の子がそこにいるなら」とイエス様が言われるように、神様が望まれる平和に満ちた生き方ができるためには、まず自分が平和の子であることが求められます。そしてそのために毎日自分で神様に心を開き、対話し、イエス様を意識しイエス様を大切にして生活することです。
イエス様は今日の福音の最後に「その町の病人をいやし、また『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」と言われます。神の国をあなたがたで作りなさいと言われたのではなく、「神の国があなたがたに近づいた」と言いなさいと言われます。つまり神様の方が私たちに近づいて共にいてくださることを指し示していきなさいということです。神様が私たちの近くにおられることがわかる一番のかたちは病人がいやされることかもしれません。それはいわゆる奇跡的な病気の治癒が起こるということではないかもしれません。でも、神様の働きが今も続けられていること、そのことに心からの信頼を寄せる人、自分ではなく神様を第一にして生きる生き方をする人に、神様は必ずその信頼に応えてくださるのは本当だと信じます。
宣教するとは、何か神様についての知識を伝えることというよりも、私たちの生活の中に神様が共におられ、神様の働きが実際にあることを指し示していくことです。自分の普段の生活の中に神様が共にいて働いてくださっていることを私たち一人ひとりが実際に感じ取り、その働きを人々に伝えることができるようになっていきたいです。そのために神様の働きを感じ取る本当の信仰を培っていきたいです。
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