ヨハネ01:35-42 年間第2主日(2021年1月17日)
1年の初めに、人々は初詣として神様にこの1年のことを祈ります。私たちはお祈りで神様にいろんなことをお願いしていると思います。でも祈りとは、ただ神様にお願いをすることだけではないのだと思います。
サムエルという男の子がいました。サムエルは神殿で祭司であるエリと一緒に生活していました。ある晩、神殿で眠っているサムエルに神様が「サムエル、サムエル」と声をおかけになります。その声を聞いたサムエルは祭司であるエリが自分を呼んでいると思って、エリの所へ「お呼びになったので参りました」と言いました。でもエリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言います。そしてまた神様は「サムエル、サムエル」と呼ばれます。呼ばれるたびにサムエルは起きて、エリの所へ行きました。その度にエリは「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言いますが、エリはこれはもしかしたら神様がサムエルを呼んでおられるのだと気づき、サムエルに今度「サムエル」と呼ぶ声が聞こえたら、「主よ、お話ください。僕は聞いております。」と言いなさいと言います。そしてサムエルは神様が「サムエル、サムエル」とお呼びになったとき、「どうぞ、お話ください。僕は聞いております」と答えました。これが第一朗読で読まれたサムエル記の話ですが、この「どうぞ、お話ください。僕は聞いております。」という言葉が、私は神様に祈るとき、とても大切な態度ではないかと思います。
祈りは、ただ自分の願いを神様にお祈りすることだけではありません。この「どうぞ、お話ください。僕は聞いております。」のように神様の願い、思いを私たちが聞いていくことです。神様の願いを聞くと言っても、私たちの耳に実際に神様の声が聞こえてくるということではないかもしれません。でも神様は、私たちがいつもサムエルと同じように「どうぞ、お話ください。僕は聞いております。」という心でいつも神様に心を向けていくことを待っておられるのだと思います。
今日の福音で二人の弟子がイエス様と出会う場面が朗読されました。イエス様は御自分に従って来る2人の弟子に「何を求めているか」とお尋ねになります。そして彼らが「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエス様は「来なさい。そうすればわかる」とお答えになります。弟子たちがイエス様に「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねたのは、文字通りどこに宿泊されておられるのですかという意味で尋ねたということでしょう。しかし、この泊るという言葉は「留まっている」ということも意味します。ただ生活として寝る場所ということではなく、自分の存在、あり方の基を置いている所という意味です。そしてイエス様が常に留まっておられるのは御自分の父なる神のもとであるということです。
イエス様は弟子たちに「来なさい。そうすればわかる。」とお答えになります。来なさい。そうすれば私がいつもどこに留まっているかわかるようになるだろうということです。イエス様にとって生き方、あり方の基は常に父である神様でした。そして私たちにも自分の存在、あり方の中心を父である神様に置いて歩みなさいと呼びかけられるのです。
弟子たちはイエス様のもとに一緒に一晩泊った後、仲間の弟子たちに「私たちはメシアに出会った」と告げます。彼らはイエス様と一緒に泊まりながらどのような体験をしたのでしょうか。
聖書にはそのことの記述はありません。でもきっとイエス様と一晩一緒に過ごしながらいろんな話をしたのだと思います。そしてそのイエス様との出会いを通してかけがえのないものを体験したのだと思います。そしてイエス様と一緒に泊まった弟子の一人アンデレは、自分の兄弟ペトロに会って、「わたしたちはメシアに会った」と言って、ペトロをイエス様のところへ連れていきます。それくらいアンデレにとってイエス様との出会いは強烈で忘れることができないものだったからでしょう。私たちも他の人々に対して「私はイエス様に出会った」と言えるようになりたいです。そして自分の日々の出来事を通してイエス様と真に出会っていく、そのような毎日を歩んでいきたいです。
私たちは毎日いろんな出来事を経験しています。その出来事を通して語ってくださってる神様の思いに少しずつ心を開いて、神様がこの私たちにどんな願いを持っておられるか心で聞いていくことも大事にしたいです。神様はこの新しい年に私たち一人ひとりにどんな願いを持っておられるでしょうか。そのことを大事に受け止めて歩んで
いきたいです。
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