マタイ18:15-20 ミサ説教
イエス様は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われます。今、新型感染症の広がりを防ぐために、密な状態で人が集まること、特に飛沫によって感染することに細心の注意を払わなければなりません。このような状況の中で、私たちはどう信仰を深める生活を送っていったらよいでしょうか。そしてイエス様が言われるイエス様の名によって共に集まる中にイエス様が共にいてくださることをどう実感していったらよいでしょうか。そのことを心に留めながら今日のみ言葉に心を向けたいと思います。
今日の第一朗読で、主の言葉が預言者エゼキエルに臨みます。「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない」。預言者の役割は、神様から受けた言葉を民に伝えることです。それが人々にとって耳に心地よいものだったら預言者はどんなに楽だったでしょう。しかし、その神様からの言葉が民に対して警告を与えるものであれば、その使命は簡単なものではなくなります。人々から無視されたり、それで終わらず迫害も経験しなければならなくなります。エゼキエルもそのような中を歩みます。しかしエゼキエルが神様から受けた使命は、決して民を断罪することではありませんでした。民を回心させ、新しく生まれ変わらせることが目的でした。もし、私たちが生きる現代にエゼキエルと同じような預言者が与えられたとしたら、何を私たちに告げ、語るでしょうか。このコロナ感染危機の中でどんなメッセージを告げるでしょうか。
今日の福音のイエス様の言葉は、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」というものです。罪とは人との関係を壊し、それが神様との関係をも切り離す行いのことです。イエス様はそのような兄弟がいたら、忠告するように招かれます。もしその兄弟が聞き入れなければ、ほかに一人か二人を連れていって忠告しなさい。それでも聞き入れなければ教会に申し出なさいと言われます。そのようにイエス様が言われるのは、罪を犯した兄弟を断罪するのではなく、失わないようにするためです。
私たちも経験から、人を忠告することは簡単なことではないことを知っています。忠告すれば相手から嫌がれるでしょうし、関係が切れてしまうこともありえます。でも、考えてみれば、人を忠告するとき、そこに相手を裁く気持しかなかったら、決してその忠告はうまく運ばないということがわかります。人は相手から忠告されるだけでは、そのあり方を変えることができないものを持っています。逆に自分が望ましい行いができていない時でも、人から親切に接してもらえたり、あたたかい言葉をかけてもらえたとき、自分のかたくなだった態度に光が射して、心を入れ替えることができます。
私は「人は人のやさしさに触れる時、自分も人にやさしくすることができる」という言葉が好きです。人からしかられたり、怒られるのではなく、人のやさしさ、あたたかさに触れることができたとき、人は自分の行いやあり方を変えることができます。どんなに自分で努力しても変えることができなかった自分の態度が、人の親切やあたたかい態度によって心が解けて、自分も周囲の人に対してあたたかく接することができるようになります。私たちの心にはそのような本能が備わっているのです。
同時にそのあたたかさは、人から受けるあたたかさだけでなく、神様から向けられているものであることを私たちは忘れてはなりません。私たちが普段気づいていなくても、神様の私たちへのまなざしはいつも慈しみに満ちたものです。今日生きるためにこの1日を与えられたのも、神様からの大きな無償の恵みです。ただ私たちがそのことを感じられず、いつも不平と不満でいっぱいになってしまっていたら神様も残念に思われるでしょう。どうしたらそのような状態から抜け出て、いつも感謝の心を持って歩むことができるでしょうか。
それはやはり日々の祈りだと思います。祈りは決まった祈りの言葉を唱えること以上に、ありのままの自分を神様に向かって開き、神様に何でも自分のことを伝えていくことです。そうすることで神様との距離を縮め、いつも神様とつながった状態で生活していくことができます。そのような習慣を大切にしている人に神様はふとした出来事を通してご自分の存在を感じさせてくださいます。そしてイエス様が言われるように一人ではなく二人、三人と信仰の仲間と一緒に神様につながっていくとき、イエス様も私たちと共にいてくださることを感じさせてくださいます。
「隣人を自分のように愛しなさい」。どんな掟もこの言葉に要約されるこの大事な呼びかけも、よき仲間と共にイエス様に心を向けていくとき、自然なかたちであたたかい言葉を人に向けていくことができるようになります。今の困難な状況がこれからも続いていったとしても、私たち同士が信仰の絆をもって互いにつながっていくことを大事にしていきたいです。そのためにできる工夫を大事にしていきたいです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。このイエス様の言葉をよき仲間と共に大事にしていくことができますように祈りたいです。
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