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2020年9月27日 年間第26主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2020年11月1日
  • 読了時間: 4分

マタイ21:28-32 ミサ説教


これはある方から教えていただいた話ですけど、地方の離島の教会で一人の神父様が働いていました。田舎の小さな教会なので、日曜日のミサもたくさんの人が集まるわけではありません。ある時、神父様は教会の墓地が今、草ぼうぼうになっているので、今度の土曜日、来れる人は墓地に集まって皆で草取りを行いましょうと呼びかけました。皆、「はい、わかりました。行けたら行きます」との心よい返事をしました。その中で一人の腰の曲がったおばあさんがおられて、皆はそのおばあさんに「おばあさんは無理をしなくていいですよ」と言いました。そしてその土曜日が来て実際どうなったかというと、墓地の草取りに集まったのは、神父様とその腰の曲がったおばあさんだけでした。そしておばあさんは、「私は腰は曲がってはいても、ずっと畑作業をして働いてきて鍛えているから、心配いりませんよ」と言って、神父様の何倍も働いて教会の墓地はすっかりきれいになりました。ところで「「はい、わかりました。行けたら行きます」と心よい返事をした人たちはどうしたのでしょうか。皆、「行こうとは思っていたんですが用事ができまして」とか、いろいろもっともな理由を並べて、結局は誰も行かなかったということです。これは一つの例ですけど、このようなことはどこででも起きているのではないでしょうか。良いことだとわかっていても実行することはできないでいるという現実がここにあります。

私たち信仰者も、神様のことを大切に思い、いつも心を神様に向けています。しかし神様から「私の思いを実行には移すことはできませんでしたね」と言われるかもしれません。では、それはどうしてでしょうか。それはやはり私たちが神様の呼びかけを本気では受け取っておらず、それを自分の具体的な場で実行に移そうとはしていないからだと思います。

私たちは皆、神様の呼びかけに応えて歩みたいとの思いは誰もが持っています。しかし実際のところ、自分の具体的な生活の場でどれだけ神様の思いに適った生活ができているか、それを振り返るなら、多くはできていないということになります。それでは私たちの中の何が足りないのでしょうか。それは自分の中の自分が持っている優先順位のようなもの、自分がまず何に従って生活していこうとしているか、それを支える基準のようなものが、神様に対する思いよりも、あくまで自分が第一で自分の好みを優先して生活してしまっているからだと思います。私たちは何も考えず自然のままに生活していたら、そうなってしまう傾きを持っています。そこから一歩抜け出て、自分の思い、望み以上に神様の思い、呼びかけを大事にして、それを生きる。これは言うことはやさしいですけど、なかなか実行が難しいということかもしれません。

そのような私たちが一歩抜け出るために必要なこと。それは信じること、そこから得られる力によって支えられ導かれることによるのではないかと思います。自分の思い、力だけではとても神様の思いに応えることはできない。しかしその自分の弱さを謙虚になって認めながら神様に心を向けていく。イエス様に心を通して何でも話していく。自分のこと、うまくいっていることもいっていないことも、苦しみも喜びもすべてイエス様に話していく。そのようなイエス様との関わりの習慣を築くことができる人は、やはり何かが違ってくると思います。人間は、意志の力だけで自分を制御することはできません。でもイエス様と対話することで、少しずつ自分のものの考え方やあり方が変えられてきて、自然とはいが言えるようになる。あんなにいやだと思っていたことが、いやでなくなっていく。そんなふうに自分が変わることができる。

神様の呼びかけは、決して私たちに苦しい労働を課すものではないと思います。神様は私たちを真の喜びに招き入れるために必要なことを呼びかけられるのだと思います。

パウロが言うように、イエス様も神の子でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

私たちの生き方は、このイエス様の姿に倣い、イエス様といつもつながって自分を捧げる生き方をしていくことです。そのために毎日、心でイエス様に語りかけ、力を願い、生活していくことです。その心の態度が私たちを自由にし、心に喜びを感じさせ、イエス様の後を従っていくことができるようになります。

はいと心よい返事をして何も行わないことより、一度はいいえと断ってしまっても後で考え直して行う人に私たちもなっていきたいです。私たちにとって毎日の生活がその修練の場なのだと思います。

 
 
 

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