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2020年8月30日 年間第22主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2020年11月1日
  • 読了時間: 5分

マタイ16:21-27 ミサ説教

初めて教会の建物の中に入られた人が、まずどのようにとらえたらよいかとまどうのが十字架に架けられたイエス様の姿ではないかと思います。教会やキリスト教に対してよいイメージを持っていても、このイエス様の十字架の姿は簡単に理解できるものではないでしょう。私たち人間が願い、求めているものはやはり救いだと思います。そしてその救いは、苦しみから解放されること、困難や様々な問題から自由になることです。人はそのために祈り、力を願うのだと思います。

しかしイエス様は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」。こう言われます。自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエス様の後を従い続けて生きる中に救いがあり、復活のいのち、永遠のいのちにつながるというのがイエス様を通して示された神様からの真理です。私たちはこのことをどう受け止め、自分のものにしていったらよいでしょうか。

イエス様は、ご自分が必ずエルサレムに行って、多くの苦しみを受けて殺されることを弟子たちに打ち明けられます。それは弟子たちにとって根耳に水の話です。自分たちが真の先生としてお仕えしている方、そのイエス様の側でお仕えしていたら、きっと自分たちも将来安定した地位と救いを与えられるかもしれない。そのような期待を弟子たちは抱いていたかもしれません。弟子たちからすれば、自分たちの師である方の屈辱の死、敗北の死としての十字架の死など決してあってはならないのです。そして弟子たちだけでなく、当時の人々にとっても人間の常識で受けとめられるものではなかったはずです。だからペトロはすぐに反応します。「主よ、とんでもないことです。そのようなことはあってはなりません」。これはペトロの正直な思いだったでしょう。

しかし、イエス様はこのペトロの思いをはっきりと否定されます。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。サタンとは人間と神との間を引き裂くもの、人間から神に向かう心を取り去る存在です。イエス様はサタンに従うのではなく、この敗北に見える十字架を担って歩む生き方の中に、真のいのちを生きる鍵があるという確信があります。そして弟子たちも言われます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」。

ペトロや弟子たちがこのイエス様のことばをどれだけ理解できたかわかりません。おそらく全く理解できなかったかもしれません。十字架に価値があるということは、そう簡単に理解できるものではありません。誰が最初から苦しみが伴う十字架を引き受ける生き方をすることができるでしょうか。誰もがそこから逃げたいと思うのが普通です。それでも愛という観点から見るならば、十字架は違った意味を持ちます。実際に真の愛を生きようとすれば、必ず十字架が求められます。具体的に言うならば、愛には必ず自己否定が求められます。真に相手を愛するためには、自分を譲り、自分の思いを捨て、相手に自分を与えることが必要になります。自分を守り、何も失わないようにしていくなら、決して真の愛を生きることはできません。

現代の人々の価値観からすれば、自分を否定する生き方など避けるべきであり、もっと自分をアピールし、自分を肯定していくこと、自分を高く評価していくことが大事であるということになるのかもしれません。自分をどれだけ価値あるものにしていけるか、いかに大きく見せることができるか、そのために日々切磋琢磨していると言えるかもしれません。しかし、イエス様が示された歩み、生き方はそうではなかったのです。

十字架、そこにはいくつかの大切な要素が一つになって表されています。その一つは苦しみであること。そしてもう一つは救い、そして究極の愛です。イエス様の真の姿は神の子であり、天の父から遣わされてこの世に来られました。それは罪の状態に縛られ不自由になっている私たちを救い出し、真の救いへの道に連れ戻すためでした。そしてその究極の業が十字架の上でご自分の命を捧げることでした。

十字架、それは本当に不思議で、そして大切なものです。普通は避けたいと思う十字架、でも愛の観点から見るなら十字架をその身に引き受けることこそ究極の愛であり、それをわめきたてず、静かに受け止めるなら、愛は深められ本物になります。イエス様はご自分で十字架を担うことで、私たちに真の愛の姿を表してくださいました。確かに重く苦しい生き方かもしれません。自分を忘れ、人のために自分を与えることも求められるでしょう。時には人から誤解され、蔑まれる経験をすることがあるかもしれません。それでもイエス様はそこに価値を置かれました。愛は自分を与えることであり、自分に死ぬことであると。そしてその死が新たないのちを創造すると。

イエス様は単に力に満ち、力ある業と奇跡だけを行うためにこの世に来られたのではありませんでした。最後はぼろぼろになり、小さき姿となって歩んでくださいました。その姿が自分の小ささのゆえにあえいでいる私たちにとってありがたく、そしてあたたかく感じられます。私たちが信じ、希望をもって、心を向けている方は、苦しみの重みを知っておられ、それを救いへと変えてくださる方です。十字架、それは神様が示してくださった私たちへの究極の愛です。どんなに苦しいことがあっても、十字架を担って歩まれたイエス様の姿を思い出し、その姿を思って生きていきたいです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。このイエス様の言葉を心から受け止め、十字架を生きる中に救いへの道があることを心に刻みたいです。私たちの信仰はそこに意味があります。

 
 
 

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