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執筆者の写真 カトリック戸塚教会

2020年5月3日 復活節第4主日

ヨハネ10:01-10 ミサ説教

私たちは今、復活節を過ごしています。そして今日はその4番目の主日です。福音ではヨハネの福音10章が読まれました。この箇所が選ばれているのは、善き牧者として今も生きておられるイエス様と私たちとの関わりを味わうためです。

イエス様は言われます。「羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

イエス様は御自分を羊飼いにたとえられます。そして善い羊飼いは羊をすべて連れ出して豊かな命へと導いていきます。このイエス様の言葉の中で私は「羊はその声を知っている」という言葉に目がとまりました。私たちが何かを知っていると言うとき、たとえばお茶を嗜む人がいてその人が私は茶道を知っていると言うとき、それは単なる茶道についての知識を持っているということより、実際に茶道を経験したことがあり、茶道のすばらしさを味わったことがあるという意味です。私たちが何かについて知識として知っていることと実際に体験を通して知っていることとはやはり違いがあると思います。

私たちにとってイエス様に対してはどうでしょうか。私たちはイエス様について知識として知っているのでしょうか。それともイエス様を実際に自分の体験を通して知っているのでしょうか。復活されたイエス様は私たちがその目でその姿を見ることはできません。それでもイエス様は確かに共にいてくださっています。そのイエス様を実際に知る体験を私たちがしていくことです。それは私たちの信仰生活の中で一番大事なことかもしれません。私たちにとって大切なことは、羊が自分の羊飼いの声を知っており、そして他の羊飼いの声と聞き分けることができるように、私たちもイエス様の声、呼びかけを聞き取っていくことです。現代には情報があふれ、いろんな声が私たちの生活を覆っているように感じます。そのような中で羊が自分の羊飼いの声を聞き分けるように、私たちもイエス様の声を聞き分けられるようになっていきたいです。

イエス様は「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」とおっしゃいます。私たちがイエス様から真の命を受ける。それも豊かに受ける。そのためにイエス様が日々私たちに呼びかけてくださる心の声を私たちが大切に聞き取って、その声に従って歩むことです。どのようにしたらイエス様からの声を心で聞き取っていけるのかとの思いも生じると思います。一つ言えることがあるとしたら、普段の生活の中でイエス様の存在を意識することだと思います。どんな状況下であっても繰り返しイエス様の姿を意識し心を向けてみること。イエス様だったらどのようにお思いになられるだろうか意識してみること。それを繰り返していく中で自ずとイエス様の声に聞き従っていくことができると信じます。

新型コロナウィルス感染症を防ぐために、外出をひかえ家で過ごすことが今求められています。その中でいろんな困難や不自由さを感じておられる方々もたくさんおられるでしょう。私たちはこの状況の中で、どのようにイエス様の声を聞き取っていったらよいでしょうか。じっとして何もしないということでしょうか。それともこのような状況の中でいつもより静かに落ち着いて普段できていなかったこと、読書や黙想、祈りなどを大切にしていけないでしょうか。

私は、4月14日に戸塚教会へ引越して来て、本当は新しい教会で信徒の皆さんとの新しい出会いの中ですばらしい働きを始めていきたいと希望していました。しかし実際は、日曜日の主日も戸塚教会では一人でミサを捧げている状況です。誰も人が座っていない聖堂のいすを眺めながらミサを捧げています。とても不思議な感じです。それでも不思議と寂しい感じを覚えません。誰もいなくても、普段通りミサを捧げていく。でもその行いは私たちの思いを超えて神様に向けられ、神様は私たちの祈りと行いを大きな力に変えてくださる。

私たちは改めて神様のなさり方、働きに大きな信頼の心を向けて、このような状況だからこそ一層神様の存在と働きを信じて日々を過ごしていくのだと思います。教会に人が集まることができないのは、司祭としてとても寂しいことです。改めて交わりの大切さを実感しています。でもこのような中で今まで以上に互いのことを思い合い、つながることができる手段や働きを大切にして歩みたいです。関係が途切れてしまっている人々、一人寂しい思いをしている人々を今まで以上に大切にすることが、今神様から私たちに呼びかけられているのだと思います。

忘れていけないのは、イエス様は私たちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるために十字架にかかってくださり、私たちはそのイエス様がお受けになった傷によっていやされたということです。苦しみや困難の中にある時、イエス様の姿を思い起こして、心でイエス様に何でも伝えながら、イエス様が私たちの心に語りかけてくださる声を大事に聞いていきたいです。今はそのような時として過ごすことが求められているのだと思います。

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