ここに「くつやのマルチン」という絵本があります。この絵本はロシアのトルストイの短いお話をもとに作られたもので、マルチンという一人の靴屋さんの物語です。マルチンは腕のよい靴職人で、朝から晩までみんなが喜ぶ丈夫でよい靴を作っていました。ある時マルチンは夢の中でイエス様の「マルチン、明日会いに行くから待っていなさい」という声を聞きます。マルチンは、本当にイエス様は私のような者の所に来てくださるだろうかと思いながら楽しみにします。次の日の朝、マルチンが最初に出会ったのは雪かきをしていたおじいさんでした。マルチンはそのおじいさんにあたたかいお茶をごちそうしました。次に出会ったのは赤ちゃんを抱いた女の人で、朝から何も食べていなかったのでマルチンはあたたかいスープとパンをごちそうしました。その次に出会ったのはおばあさんと男の子で、男の子がおばあさんのリンゴを盗もうとしておばあさんはひどく怒っていました。マルチンは出ていって男の子におばあさんに謝りなさいと言い、おばあさんにはゆるしてやりなさいと声をかけました。そうこうしているうちに夕方になり、マルチンはイエス様は明日会いに行くから待っておいでとおっしゃったのに、結局来てくださらなかったなと思いました。そしたらふと誰かがいる気配がして、イエス様が「マルチン、私がわからなかったのか。お前が今日出会ったのは皆私だったのだ」と言われました。イエス様はいろんな人の姿に変えてマルチンのもとを訪ねてくださっていたのです。マルチンはそれがイエス様だとはわからなかったけれど、皆にやさしく親切にしてあげたことは、イエス様にして差し上げたことと同じだったのです。マルチンは聖書の中の「私の兄弟であるこのもっとも小さな者の一人にしてくれたことは、私にしてくれたのである」というイエス様の言葉を思い出しました。これがトルストイの「くつやのマルチン」というお話です。
今日、私たちが福音で聴いたイエス様のたとえ話も同じことを伝えています。飢えている人、渇いている人、宿がなく、着るものがない人、病気の人、牢にいる人に愛を示していくこと。
それはその人の中におられるイエス様にして差し上げたのと同じなのだということです。イエス様が望まれる「飢えている人を食べさせ、渇いている人を飲ませ、旅をしている人に宿を貸し、裸の人に着せ、病気の人を見舞い、牢にいる人を訪ねること」それを、文字通りそのまま行うことができ、自分はイエス様の言葉通りに行うことができていると感じられるならとてもよいと思います。でもそれを私たちの日常の中で実行しようとするとそう簡単にはいかないと感じることもたくさんあるように思います。
これは私の経験ですが、普段教会にいると、人の相談を受けることがあります。いろんなことでうまくいっていない人、苦しんでいる人たちの話を聞くこと。それは大事な働きです。でも時にそれが難しく感じることもあります。相談に訪れる人、相談の電話をかけてくる人の多くは精神的な問題を抱えている方々です。話相手になってほしい。ただ聞いてほしいという願いを持っている方々です。でもその問題が精神的な問題である場合、聞き手となることは簡単ではないと感じます。そしてどうすることもできないと無力感を感じることも多いです。私たちは、それでもこの難しい社会の中で、何らかのかたちでイエス様の呼びかけに応えられるように知恵を集めることが求められているでしょう。イエス様がこの最後の審判の話をなさったのも、神様はどのような価値基準で私たちの一生を計ろうとされるか、それを明らかにしようとなさったからだと思います。
神様は何を基準として私たちの一生を計られるのでしょうか。何が神様の前で価値があることでしょうか。このイエス様の話からわかるのは、神様の前で唯一価値があるのは、小さき人々へ示した愛だけであるということです。神様が人間の一生を計られる時、その基準はただ一つで、愛の業を行うことができたかどうかということ。そこに集約されるということ。私たちはそのことを受け止めながら日々の生活の中でそれをどう行っていったらよいか、日々苦労しているのだと思います。でも私たちはその愛の業を大きく考える必要はないのかもしれません。日常の小さな事に愛を込めていく。疲れている人、苦しんでいる人に優しく微笑むだけでも愛を表すことになります。そしてその自分の行いを決して自慢することなく、謙虚に普通のことをしただけだと思うこと。そのような心の態度を神様は喜んでくださいます。
イエス様が示された究極のメッセージは「私の兄弟であるこの最も小さな者の一人にしてくれたことは、私にしてくれたのである」というメッセージです。苦しんでいる人、助けを必要としている人に行ったことが、イエス様に対して行ったことと同じになる。イエス様は苦しんでいる人々の中にいて、私たちの愛の行いを待っておられる。それがイエス様のメッセージです。マザーテレサもこのイエス様の言葉を大事にされました。「私の兄弟であるこの最も小さな者の一人にしてくれたことは、私にしてくれたのである」というイエス様の言葉を日々受け止めて、日々出会う人々との関わりを通してイエス様と出会っていかれたのがマザーテレサでした。貧しく苦しみの中にある者の中にイエス様はおられる。そのイエス様を愛すること。
私たちは、目の前の苦しむ人の中に、イエス様ご自身の姿を見ようとします。それは、イエス様ご自身が苦しみを引き受け、その苦しみの中を歩んでくださったからです。目の前にいる人を愛することが難しく感じられるとき、そこにイエス様の姿を見ることができるように祈りたいです。そして、その人の中におられるイエス様を愛することができるようになっていきたいです。私たちがこの人生を終えて神様から問いかけられるのは、どのようにこの人生を歩むことができましたかということです。そして何か人のために自分を与えることができましたかということだと思います。私たちはいつも失敗ばかりですが、それでも何か自分ができる自分を与えることを見出して日々の生活を大事にしていきたいです。イエス様は今も、苦しんでいる小さき人々の中におられて、私たちの行いを待っておられるのだと思います。そのイエス様の心に少しでもお応えしていきたいです。
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