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2020年11月15日 年間第33主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2020年11月15日
  • 読了時間: 4分

マタイ25:14-30 ミサ説教


人は誰もいつかこの世を旅立つ日が訪れます。この世の歩みを終えて神様のもとに向かいます。私たちの人生はある意味で、この神様のもとに行く準備をしていることになります。この神様からいただいたいのちの時間をどのように使っていったらよいか。それはすべての人に与えられた神様からの課題でしょう。

今日の福音のイエス様が話されたタラントンのたとえ話も、私たちがどう生きるべきかを問いかけています。タラントンとは、一人ひとりが神様から委ねられている賜物、能力のことです。神様はそれを一人ひとりが使っていくことを望まれます。そしてこのタラントン、賜物は、人と比べて多い少ないを思う性質のものではありません。1タラントンも一見少なく感じますが、実際は当時のお金で20年分にあたる給与の額なので相当の額になります。

このたとえでも1タラントン委ねられた人は、その額の少なさに不満をいだいたとは書いてありません。彼が土の中に埋めたその理由は主人が厳しい方だから恐ろしくなって、土の中に埋めてふれずにいたということです。しかしその僕の態度は主人の目にはよしとは映りませんでした。主人は一人ひとりに信頼して委ねたタラントンを活かしてほしかったのです。もうける額の大きさを主人は問題にしていません。5タラントン、2タラントンさらにもうけた忠実な二人の僕の両方に全く同じ言葉で喜びを表しています。

今日のこのイエス様が話されたたとえのポイントは、1タラントン与った僕の姿にあります。この僕は、主人は厳しい方だからという理由で委ねられた賜物を活かしませんでした。何もしませんでした。しかし実際は、主人は僕が想像するような厳しい方ではなかったのです。僕たちの幸せを願って、そして信頼して賜物を与え委ねてくださる方だったのです。そして僕達が自分の思いに応えてくれることを願って旅に出たということです。

その主人に表される神様の真の姿を知ること。そのよさを知ること。それをしっかりと自分のものにしないかぎり、私たちも1タラントン与った僕と同じように自分に委ねられたタラントン、賜物を活かすことなく終わってしまうかもしれません。掟を守り、ミサを始め秘跡にあずかるだけでよいとキリスト者の生き方をとらえているなら、この1タラントン与った僕と同じように、与ったタラントンを土の中に埋めてしまっているのと変わらない生き方をしていることになります。神様の望みは私たちが神様の呼びかけに応えてタラントンを活かすことにあります。

たぶん私たちの中から出てくる問いとして、それではどのようにすればタラントンを活かすことができるかということです。一つの答えを言うことができるとしたら、それは自分の愛の心をもっと大きく広げていくということでしょう。自分のことでいっぱいにならず、周囲の人に心を向け、自分ができる愛の行いを大事にしていくこと。同時に神様に対しても愛の心を向けていくこと。神様は私たちが心を開いてご自分に心を向けることを何よりも喜んでくださいます。自分が感じている事を神様に何でも話していく。うまくいっていることもうまくいっていないことも、素直な心で神様に話していく。そのような心の習慣を作っていく。それを通して神様の存在が身近になり、自分の中にしっかりと神様を位置付けることができるようになる。そして神様が望まれる生き方ができるようになる。このような態度を大事にしていくなら、それは自分がいただいた賜物を土の中に埋めることにはなりません。

教会の典礼は、来週の日曜日は王であるキリストの祭日で、教会の1年の典礼の歩みを締めくくります。そしてその次の日曜日から待降節が始まり、教会の新しい1年が始まります。今そのような教会にとっての1年の締めくくりの時にあたって、もう一度自分のあり方を見つめ直し、神様が望まれる生き方に心を向けていきたいです。そしていつの日かこの世を旅立つ時、自分の人生が、神様から忠実な良い僕だ、よくやったと言っていただけるような人生にしていけたらと願います。その恵みと力を祈り願いたいです。

 
 
 

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