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2020年10月4日 年間第27主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2020年11月1日
  • 読了時間: 5分

マタイ21:33-43 ミサ説教

誰でも作物を育てるなら、よい収穫を待ち望みます。私は作物ではありませんが、今年朝顔を種から育ててみました。朝顔が種から芽を出し、少しずつ大きくなっていくのを見るのが楽しみでした。そしてたくさんの花を咲かせてくれたのも喜びでした。神様は「私は良いぶどうが実るのを待った」と言われます。神様はいつも良いぶどうが実るのを待たれる方です。神様が私たちに望まれる良いぶどうの実りとは何を指しているでしょうか。

イエス様は今まで幾度となく、人々の心に訴え、愛とあわれみの大事さを宣べ伝えられました。生活に疲れた人々、社会の底辺に苦しむ人々、罪人や落ちこぼれてしまった人々をやさしく包んでいかれました。またそうすることが神の心であることを、身をもって示し続けられました。そしてもし、人々の中に高ぶる心があるならば、そのあやまちを指摘されました。しかし、そのようなイエス様の心とねらいは当時の祭司長たちや長老たちには理解されませんでした。彼らは、自分たちの考えややり方に自信を持ち、それを変えようとはしませんでした。イエス様はそのような人間の持つ高ぶりや傲慢さに直面されます。イエス様は自分の呼びかけが伝わらなかったこと、実らなかったことをどれほど悲しまれたでしょうか。

そのような状況の中でイエス様は今日のたとえ話を話されたということです。ぶどう園の収穫を受けとるために、ぶどう園の主人は僕たちを農夫たちのところへ送ります。しかし、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺したとあります。イエス様が話されたたとえ話とはいえ、その農夫たちの残虐さが際立っています。その残虐さは、人間が内に秘めている闇の部分かもしれません。最後にぶどう園の主人は自分の息子を送ります。しかし農夫たちはその主人の息子さえもぶどう園の外に放り出して殺してしまいます。このたとえの中の僕たちと主人の息子とは、天の父の思いを人々に伝えようとしたかつての預言者たちとイエス様御自身を指していると言われます。でも人々は預言者たちやイエス様を受け入れようとしませんでした。それはなぜなのでしょうか。これは私たち自身も、一人ひとり答えを見つけていかないといけないと思います。人間はなぜ神様のおっしゃることに耳を傾けること、従うことができないのかということ。

私たちはいつのまにか、自分たち人間を神様の上に置いて生きているのかもしれません。自分の思い、考えが一番大事で、その自分の思い通りになることを何よりも大事にする。そのような価値観で生きているように思います。そして自分の思い通りにならない部分を、神様に祈って自分の思いが実現することを願っている。それが私たちの姿かもしれません。もちろんそのような祈りだけを私たちが捧げているわけではないでしょう。神様の思い、願いに耳を傾けようとして、そしてそれに聞き従おうとして祈っている方々もたくさんおられるでしょう。それでも私たち人間は、自分中心に生きて神様の心を忘れてしまい、壁にぶつかり力を失ってしまうことを素直に認めなければなりません。

今日の福音のたとえ話に出てくる農夫たちはなぜこれほどまでに残虐な行為に走ってしまったのでしょうか。彼らはぶどう園の主人がずっと不在だったことから、いつの間にか、主人の持ち物であるぶどう園を自分たちのものだと思い込んでしまったということが考えられます。

そしてそれは私たちにとってもありえることです。私たちにも神様から無償で与えられたもの、貸し与えられたものがあるはずです。それは自分のお金や持ち物、力や才能、そしてこのいのちとそれを生きる時間。それらは皆、神様が私たちに委ねてくださったものです。それを私たち人間は、いつの間にか、自分勝手に使ってよいものと思い込んで、自分のためだけに使っていることがあるのではないかと思います。自分の健康と命、生きることができる時間、お金、持ち物、力、才能、またこの世を生きていくために必要な環境や資源、その全てのものが、私たちがそれに値するからとかふさわしいからではなく、神様から無償で委ねていただいた、ある意味で一人ひとりがお預かりしたものと言えるのではないでしょうか。

神様はその豊かな与えられたものを、私たち人間が一人ひとりの労働をもってよりすばらしい収穫にして、本当のぶどう園の主人である父である神様とその収穫の喜びを共にするように招かれています。そしてそれが私たちの人生の意味だと思います。神様はきびしくてこわいぶどう園の主人ではなくて、私たちにたくさんのものを無償で委ねてくださり、私たちがその自分に委ねられたものを一生懸命使って、自分の労働をもってよりすばらしいものに変えて神様と共にそのことを喜ぶ。それが私たちの人生なのだと思います。

私たちの人生を終えた先には、天の父である神様が用意してくださっているすばらしい天の宴が待っているでしょう。その天で催されるすばらしい宴に喜びをもって与るために、この世でのいのちの時間が私たち一人ひとりに与えられているのです。その与えていただいたいのちの時間をどのように使っていったらよいか。またこの自分としてどのような労働を捧げていくことが神様から一番喜んでいただけるのか。そのことを私たち一人ひとりが大事に祈りの中で見つめ、答えを見出していくことだと思います。

イエス様は言われます。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える」。私たちの目に、捨てられ役に立たないと思える事の中に、神様が大事にされる、隅の親石となる大切な鍵があります。神様に喜んでいただけるぶどう園の労働とその収穫の意味について、私たちはもう一度祈り、深く受け止めたいです。

 
 
 

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