2026年6月7日 キリストの聖体の主日
- カトリック戸塚教会

- 7 日前
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ヨハネ6:51-58
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」イエス様が言われる「このパンを食べる」には2つの意味が込められていると思います。その一つは文字通りイエス様の体としての御聖体を拝領すること。そしてもう一つはイエス様の心を自分が実際に生きることです。
かつてマザーテレサは、自分は1日に2度イエス様の体を拝領すると言われたことがあります。マザーテレサは1日の始まりに行われる朝のミサをとても大切にしておられました。そして特にそのミサの中での聖体拝領をとても大事にしておられました。マザーテレサはイエス様の体である御聖体に対して特別な思いを持っておられたと思います。イエス様の体である御聖体を拝領することでイエス様と一つになる。それがどれほど大きな恵みであるかマザーテレサは知っておられました。イエス様との一致なしに自分はイエス様の心を生きることはできないと深く心に刻んでおられたと思います。同時にマザーテレサは、その1日をイエス様の心で生きることも大切にしておられました。御聖体を拝領することでイエス様と一致すること、そしてイエス様と一つになった自分がイエス様の心を具体的な生活の場で生きていくことでもう一度イエス様の体をいただくこと。人々に仕え愛を表していくことがもう一つのイエス様の体をいただくことになるのだということです。マザーテレサは、この1日2度イエス様の体をいただく生き方を生涯続けられました。
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」。そう言われたイエス様の思いをあらためて思い起こしたいです。神様が定められた本当に不思議なこと。イエス様はご自分の死が迫るぎりぎりの中で弟子たちと最後の晩餐をなさいました。そしてその席で、食卓にあったパンとぶどう酒に向かって、「これはわたしの体である。これはわたしの血である」と言われました。ふつうでは考えられない、パンとぶどう酒がイエス様の体と血になるということ。でもイエス様ははっきりとそうおっしゃり、「これをわたしの記念として行いなさい」と言われたのです。そして教会はそのことを忠実に2千年という時間を経ても変えることなく今も続けています。
イエス様はどのような思いで、この御聖体の制定をなさったのでしょうか。イエス様もきっと、許されるならもっと弟子たちと共に過ごしたい、まだまだ伝えたいことがたくさんある。でも今はもう時間がない。そのようなぎりぎりの状態の中で、イエス様は食卓の上にあった食べるためのパンとぶどう酒に向かって「これはわたしの体である。これはわたしの血である」と言われたのだと思います。パンとぶどう酒の中に御自分のいのちを注ぐ。そうすることで、これから弟子たちがこの晩餐の祭儀を繰り返す時、彼らに御自分のいのちを与えることができる。そのように思われての御聖体の制定だったと思います。私たちの肉眼の目では、ただのパンとぶどう酒にしか見えないもの。でもそれを信じる心をもって私たちが受けとめる時、それは真のイエス様の体と血になるということです。
「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」イエス様が人々に話されたたくさんの言葉の中で、この言葉ほど人々を驚かせたものはなかったでしょう。「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と当時の人々が互いに激しく議論し始めたのも当然のことだったと思います。それでもイエス様は、ためらうことなくはっきりと「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。」とおっしゃいます。
イエス様の肉を食べ、その血を飲むとは、イエス様の命そのものをいただくということ、イエス様と完全に一致することです。そしてその完全な一致は、イエス様の心と私たちの心が完全に一つになることです。イエス様が自ら差し出される体、命を、心から受ける。そして自分も生き方においてイエス様と一致し、イエス様と同じように生きようと努める。その時私たちの中で真の命が躍動し、生き始めます。それが私たちに絶対必要なことであることを「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」という言葉でイエス様は言われているのだと思います。
天から降ってきてくださった生きたパンを食べる生き方。それは神の力とその働きを信じて、自分も神様の思いに心を合わせて生きる、生活していくということです。マザーテレサが言われるように、ミサの中でキリストと一致すること。そしてそれにとどまらず日常生活の中で愛の行いを通してイエス様の体をいただくこと。この2つの聖体拝領を通して永遠の命をいただくということ。イエス様の教えの究極はここにあります。
神様は私たちの目でその姿を直接見ることはできません。でも2千年近く前、イエス様がこの世に来て話をしてくださり、力ある業を行ってくださったことによって神様の姿と心を表してくださいました。イエス様は、私には父がいるとおっしゃられ、御自分の父である方、天の父についてたくさんの話をしてくださいました。神の子であるイエス様が伝えてくださったから、私たちは天の父がどのような方か、またどのような心の方か知ることができます。
イエス様にとってもこの御自分の父である方がとても大切な方であり、いつも天の父に向かって祈っておられました。イエス様にとって祈りは御自分の父と何でもお話なさることでした。そしてイエス様は御自分の父のみこころのままにすべてを行なわれ、最後は、御自分のすべてを与えて十字架の上で命を捧げてくださいました。イエス様がなさったことはすべて天の父の心と同じでした。イエス様は、御自分のすべてを捧げて歩んでくださり、十字架の死を経て復活なさいました。そして復活されて40日後に、天の父のもとにお戻りになられました。イエス様の昇天後、約束されたとおり、聖霊が天の父のもとから送られました。
私たちが信じている神様は、父と子と聖霊、イエス様の父である神とその独り子であるイエス様、そしてそのもとから遣わされる聖霊。父と子と聖霊だけど完全に一つの神様であること。これを私たちは三位一体と呼んでいます。三位一体と聞くと何か難しいことのように聞こえますが、決して難しいことではなく、神様は父と子と聖霊で、完全に一つの心、一つの神としていてくださるということです。
現代という今を生きる私たちが、神様のことをより深く知り、その心にふれて歩むことができるために何が大切でしょうか。神様の姿を私たちの目で直接見ることができたら話は簡単ではないか、そう考える人がいるかもしれません。でもそれは私たち人間側の思いであって、神様は、今は目に見えるかたちで姿を表すことはなさいません。でも目に見えないかたちであっても確実に、私たちの中に共にいてくださっておられるのです。そして私たちの歩みを共にしてくださっています。私たちが心で神様に何でも話し、神様と心を合わせて歩む生き方を大事にしていくとき、その歩みの中で、またその歩みを振り返る時にふと神様が共にいてくださっているのは本当だと感じさせてくださいます。ただじっとして何もしないで待っているのではなく、また自分の願いだけを祈りとして捧げるのでもなく、自分も神様と心を合わせ働いていくように努めていく時、神様はきっと御自分の存在を私たちに感じさせてくださるのではないでしょうか。
一人ひとり自分の中で、神様とつながり、神様を感じる場を大事にして歩むこと。そのために何でも神様に伝え、その神様が自分の側にいてくださることを感じていくこと。神様が教えてくださった神様の姿、父と子と聖霊で完全に一致し一つであられる神様と私たちもつながって、神様がもっておられる交わりに私たちも与りたいと願います。その喜びに入るために、今の私たちの生活があるのだと思います。
天の父である神様は、御自分の大切な独り子であるイエス様を私たちに与えてくださいました。そして今を生きる私たちのために御自分の霊である聖霊を送ってくださっています。それは私たちが神様から離れて滅んでしまうのではなく、神様と共に歩んで救われるためです。私たちが励まし合い、思いを一つにし、平和を保って歩むとき、愛と平和の神が私たちと共にいてくださいます。私たち教会が、これからも一つの家族として信仰の喜びを生きることができますように祈りましょう。そのために毎日、天の父とその独り子であるイエス様と神の霊である聖霊を意識して、その神様が今日もこの私と共にいてくださり、共に働いてくださることを信じて日々の生活を送っていきたいと思います。毎日、父と子と聖霊であられる神様を思い起こし、その神様を意識し、何でも話すことで神様としっかりつながって日々の生活を過ごしていけますように。その積み重ねを通して神様としっかりつながり結ばれ、救いを実感することができますように祈りたいです。
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