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2026年3月8日 四旬節第3主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 3月8日
  • 読了時間: 4分

ヨハネ04:5-42

 

出エジプト記に「民は喉が渇いてしかたがないので、モーセに向かって不平を述べた。」とあります。エジプトを出て荒れ野を歩む中で、イスラエルの民は水の渇きを覚え、モーセに不平を述べます。それは食べ物や飲み水に苦しむことのなかったエジプトでの生活をなつかしむ気持ちとも一つになっています。そしてモーセに従ってエジプトを出発したことへの後悔の気持ちも起こります。確かにエジプトで課せられた重労働は耐えがたいものでした。しかし今、モーセに連れられてエジプトを脱出したものの、この渇きには耐えられない。これから先、自分たちはどうなるのか、その不安も強くなって民の不平も強まります。その民の訴えにたまらなくなったモーセは主に向かって「わたしはこの民をどうすればよいのですか。」と叫びます。結果として主がモーセに指示を与え、岩を打つとそこから水が出て、民は飲むことができました。

 

私たちはこの出エジプトの出来事をどう受けとめたらよいでしょうか。不平や不満がたまったら神様に叫べば聞いてもらえるということでしょうか。私はそうは思いません。逆に私たちが学ぶべきことは、私たちはどんなに不平、不満があってもそれを神様のせいにしてはいけないということです。なぜこのような目に合うのか、なぜこのような苦しみを経験するのか。このような叫びは誰もが経験します。それでもどんなに苦しみがあってもそれを神様の責任にしてはいけません。私たちは自分たちが経験する出来事すべてを説明できるわけではありません。時に黙って受けとめなければならないことも起こります。それでも神様へ心を向け続けることをやめないということです。

 

今日の福音でイエス様が喉の渇きを覚えられて、ヤコブの井戸の側に座り、水を汲みに来たサマリアの女性に「水を飲ませてください。」と言われます。ここからこのサマリアの女性とイエス様との対話が始まります。イエス様は生きた水について語られているのに対してサマリアの女性が語る水は飲むための渇きをいやす水のことです。そのためにイエス様とサマリアの女性との会話はかみ合いません。人間はあくまで飲むための水しか頭に浮かばないかもしれません。しかしイエス様は飲む水のことだけでなく、人間を真に生かす生きた水について語られ、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。」と言われます。

 

ここからわかることは、人間の思いや知恵だけで神様の思いを汲み尽くすことはできないということです。やはり神の子であるイエス様からの啓示、教えがなければ誰も神様のお考えや真理を知ることはできないでしょう。サマリアの女性は言います。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」それに対してイエス様は「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」と言われます。

 

このイエス様こそ、神様の思い、真理を知らせてくださる方なのです。私たちはもっとそのことに心を向けなければと思います。イエス様が話されたことはただのことではない。私たちが真に心に留めるべき神様からのメッセージだということです。

 

イエス様の中には尽きることのないいのちの泉があります。そのいのちの水に私たちの方から求め近づいていく必要があります。自分の愚かさや小ささ、弱さを素直に認めていくこと。そこからへりくだりの心をもっていのちの水を飲ませてくださいと私たちもイエス様に願い求めていくこと。

 

私たちの生涯の間、私たちの中の渇きは無くならないでしょう。でもその渇きがいつもイエス様に心を向けさせていくものになるなら、その渇き自体が大きな恵みになります。

 

私たちももっとイエス様と心を通じ合わせたいです。そして今日の福音で人々が語ったように「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」と心から言えるようになりたいです。

 

もう一度、自分とイエス様とのつながりを見つめ直したいです。そのような四旬節の時にしていきたいと願います。

 

 

 

 

 

 
 
 

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