2025年9月14日 十字架称賛
- カトリック戸塚教会
- 9月14日
- 読了時間: 4分
ヨハネ03:13-17
教会の建物の中に初めて入った人がまずどのようにとらえたらよいかとまどうのが、十字架に架けられたイエス様の姿だと思います。教会やキリスト教に対してよいイメージを持っていたとしても、この十字架の姿の意味は簡単に理解できるものではないでしょう。そしてその姿には人間がとらえる救い主のイメージと実際にイエス様が示された救い主の姿の違いが表されています。
私たちは誰もが救いを求めています。そして慈しみ深く私たちを迎え、憐れみとあたたかさで包んでくださるような神様の姿を求めています。しかし実際にイエス様が神の子として、そして真の救い主として御自分の姿を表してくださったのは、へりくだり、御自分を無にして十字架に架かるその姿でした。この世で栄光に輝き、力に満ちた姿ではなく、ぼろぼろになり、人間から侮辱され辱められる姿をその身に帯びてくださったのです。
でもその姿で私たちを救い、神様の私たちへの思いを示されたのです。今日、十字架の称賛の祝日にあたり、私たちもその十字架に架けられたイエス様の姿をしっかりと見つめたいと思います。そしてその姿で語ってくださっている真のメッセージを汲み取りたいです。神の子がその身に担ってくださった十字架の重み、そして私たちに本当の愛の姿を身をもって教えてくださったということ。
十字架に価値があるということはそう簡単に納得できるものではないかもしれません。十字架はできれば避けたいというのが自然の感情でしょう。しかし愛という観点から見れば、十字架は価値をもっています。十字架そしてその苦しみの中で誠実であるなら、愛は深く確かなものになります。十字架に結ばれ、自分を忘れ、自分を捧げて生きるとき、真のいのちが自分の中に宿る体験をしていくのです。
十字架を生きることと復活のいのちはつながっています。弱さを背負う私たちですが、十字架の姿で身をもって語ってくださったイエス様に励まされながら、人生の歩みの大切な部分をイエス様と共に歩むことができればどんなにすばらしいでしょう。
十字架、それは本当に不思議で、そして大切なものです。普通は避けたいと思う十字架、でも十字架をその身に引き受けることこそ究極の愛であり、それをわめきたてず、静かに受け止めるなら、愛は深められ本物になります。
イエス様は御自分で十字架を担うことで、私たちに真の愛の姿を表してくださいました。
確かに重く苦しい生き方かもしれません。自分を忘れ、人のために自分を与えることも求められるでしょう。それでもイエス様はそこに価値を置かれました。愛は自分を与えることであり、自分に死ぬことであると。そしてその死が新たないのちを創造すると。
イエス様は十字架に上げられながら、同時に御父の元へも上げられました。へりくだって十字架に上げられたことが、天の栄光に上げられたことと同じだったのです。ここにイエス様が御自身の姿で示された究極の道が表れています。十字架は苦難の極みであると同時に愛の極みです。苦しみと愛が完全に一つになっています。だから教会はこの十字架を信仰の中心としていつの時代も大切にしてきました。
私たちの生活の中にも、引き受けたくない物事がたくさんあります。でもその多くは避けて通れない、自分が背負うしかないもの、理不尽に思えても変えることができないものを引き受けていく生き方が求められます。
つらくてどうしようもないとき、一歩も歩めないと思うときは、十字架に上げられたイエス様の姿に目を上げましょう。苦しくてどうしようもないその思いを十字架上のイエス様にうちあけましょう。イエス様はきっとわかってくださるでしょう。そして答えをくださるでしょう。
イエス様が単に力に満ち、力ある業と奇跡だけを行うためにこの世に来られたのではなかったこと。最後はぼろぼろになり、小さき姿となって歩んでくださったこと、その姿が自分の小ささのゆえにあえいでいる私たちにとってありがたく、そしてあたたかく感じられます。
私たちが信じ、希望をもって、心を向けている方は、苦しみの重みを知っておられ、それを救いへと変えてくださる方です。今日の十字架称賛という私たちにとって大切な、そして神様がなさった大いなる出来事を心から讃え、十字架が復活のいのちへとつながるという道をしっかり歩んでいきたいです。
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