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2025年11月23日 王であるキリスト

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2025年11月22日
  • 読了時間: 5分

ルカ23:35-43

 

今日私たちは、典礼の1年の締めくくりとして王であるキリストの祭日を祝います。そして福音では十字架に上げられたイエス様の姿が描かれます。このイエス様こそ真の王であることを私たちも高らかに宣言したいです。

 

人が、司祭として叙階されるとき、その記念として叙階のカードを作る習慣があります。そのカードの表には何か記念になる御絵とか写真を選び、裏には自分が選んだ聖書の言葉を記すことになっています。

 

私はある時、一人の司祭の叙階式に与ったとき、その方が準備したカードを受け取りました。そしてはっとするものを感じました。その方が準備した叙階のカードの表には、実際に使われた本物の踏み絵のイエス様の写真が使われていました。イエス様が十字架に架けられた姿が銅板に刻まれていて、その上にたくさんの人々の足がのせられたことでしょう。イエス様のお顔も体も擦り切れて、顔はのっぺらぼうのようになり、胴体の部分もすりへっていました。

 

私はその叙階のカードを受け取ったとき、「ああ、踏み絵か」ぐらいにしか思いませんでした。でも後になって、よくその叙階のカードの表に使われた踏み絵の写真を見て、彼がなぜこのイエス様の姿を自分の叙階式のカードに使おうとしたのかが伝わってくるように感じました。顔も胴体もすり減って、つるつるになってしまっている踏み絵のイエス様の姿。自分が踏んでいることの意味もわかっていない者達に、「踏んでもよい。私はこのために来たのだから」というイエス様の思いがそこからあふれているように感じました。

 

イエス様は神の子としてこの世に来られ、私たちに天の父の慈しみと私たちへの望みを伝えてくださいました。そして御自身、天の父のみ旨に従って、御自分を与え尽くす生き方をなさいました。町から村へと回りながら、人々に慈しみと憐みを表して神の国の生き方を宣べ伝えられました。

 

しかし、そのような態度は時の権力者や自分の力を過信している世の指導者たちから受け入れられず、排斥されることになりました。最後は、十字架刑という刑罰の中で一番重く、そしてむごたらしい刑をイエス様に科しました。

 

イエス様は何もわかっていない、そして自分たちのおろかさに目覚めていない人間に代わって、その苦しみの極みの十字架刑をその身に引き受けられました。

 

議員たちも、兵士たちも、そして一緒に十字架にかけられた犯罪人の一人もののしって言います。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」彼らが考える救い主とは、このようにみじめに十字架にかけられる無力な存在ではなく、力に満ち、光輝き、栄光に包まれている、そして自分に立ち向かうすべての敵をその力で屈服させる、そのような救い主の姿を思い描いていたと思います。彼らにとっては、十字架などにはかからない、十字架から降りて力を示すメシアこそ真の救い主であるということです。

 

しかし、イエス様は御自分のために力を使って十字架から降りることをなさいません。されるがままに、その十字架の上にとどまり続けられます。

 

十字架に架けられた一人の犯罪人は「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかしこの方は何も悪いことをしていない。」そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」と願います。この犯罪人はイエス様をメシアと認めています。そしてイエス様は十字架から降りることができないのではなく、むしろ降りないことによってメシアなのだと捉えています。イエス様は罪がないのに、私たちのために、私たちに代わって十字架に架かって命を捧げてくださっているのだと受け止めています。

 

イエス様はこの犯罪人に「はっきり言っておく。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われます。私たちの人生の目的も、このイエス様が約束してくださる楽園に共に与ることができるようになることです。イエス様は十字架に上げられながら、同時に御父の元へも上げられました。へりくだって十字架に上げられたことが、天の栄光に上げられたことと同じでした。だから教会はこの十字架を信仰の中心としていつの時代も大切にしてきました。私たちの生活の中にも十字架があります。つらくてどうしようもないとき、一歩も歩めないと思うときは、十字架に上げられたイエス様の姿に目を上げたいです。苦しくてどうしようもないその思いを十字架上のイエス様にうちあけたいです。イエス様はきっとわかってくださるでしょう。

 

イエス様が単に力に満ち、力ある業と奇跡だけを行うためにこの世に来られたのではなかったこと。最後はぼろぼろになり、十字架に架かって無力な姿に徹してくださったこと、その姿が自分の小ささ、無力さのゆえにあえいでいる私たちにとってありがたく、そして力強く感じられます。私たちが信じ、希望をもって心を向ける方は、十字架の重みを知っておられ、それを救いへと変えてくださる方です。その姿で真の王の姿を示された方です。私たちももう一度十字架に込められたイエス様の思いに心を向け、私たちにとって、イエス様の十字架の姿が私たちが生きていくための大きな力と支えになりますように祈りたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

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