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2025年12月7日 待降節第2主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 12月7日
  • 読了時間: 4分

マタイ03:01-12

 

待降節は、英語では「アドベントAdvent」と言います。その意味は「到来」です。待降節第2主日の福音では毎年、洗礼者ヨハネに関する箇所が読まれます。洗礼者ヨハネとともに、彼がその到来を告げ知らせた「来(きた)るべき方」に私たちも心を向けたいと思います。

 

私たちは今、主の降誕を迎えるために心の準備をする待降節を過ごしています。その過ごし方として大切なことは、自分の中にある闇、そして私たちが生活しているこの社会の中にある闇を見つめることだと言われます。自分の中にある闇、そしてこの社会の中にある闇を見つめることができる人こそ、そこに光として、救い主として来てくださる神の御子のありがたさがわかるということです。

 

今日の福音に登場する洗礼者ヨハネは、荒れ野に現れて人々に悔い改めを呼びかけました。洗礼者ヨハネは言います。「悔い改めにふさわしい実を結べ。・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」洗礼者ヨハネの言葉は厳しく響きます。でもそれは洗礼者ヨハネが私たちに、神の前での真剣な態度を求めているその思いの表れです。

 

洗礼者ヨハネが回心を呼びかけた場所は荒野だったと言われています。荒野はとても厳しいところです。簡単に生活できるところではありません。でも自分が今その荒野に立っているということをしっかり自覚するなら、そこから自分が真に目を向けなければならない方が誰であるかわかる場所でもあります。私たちの人生の歩みは荒野の中を歩んでいるのと同じかもしれません。私たちはその中ですべて自分の力で歩もうとし、同時に壁や重荷にさいなまれ、物事がうまく運ばないことにいらだちを覚え、力を失い倒れています。荒野はその意味でとても厳しい場所あり、人間に無力さを見せつけます。でも逆に人間はその荒野にあって神様に心の目を向け、神様と共に歩まなければ真に生きることはできないことを悟ります。私たちにとって真の意味で回心するとは、この自分と神様とのつながりを取り戻すことです。謙虚になって、自分の無力さを認めて、神様に心を向けることです。

 

ある方が「神様の愛を直接肌で感じてみたい」と言われたことがあります。神様が愛であるなら、その愛を直接肌で感じることができるようにしてほしいということです。しかし神様の愛は私たちが感覚で確かめるようなことではありません。それより、一人ひとりが素直な心になって自分のありのままの姿を見つめて、自分の小ささ、足りなさを認めていくとき、その自分を支え、励まし、見守ってくださっている存在が確かにあることに気づくことです。私たちの罪は、何か悪い行いをしてしまったということ以上に、私たちがこの神様の存在に無関心になり、心を閉ざして歩んできたその心の態度を指します。自分と神様との間に生じている心の隙間、心のずれ。それを正していくことこそ、洗礼者ヨハネが呼びかけた真の悔い改めです。

 

神様がイエス様を通してもたらしてくださるのは「怒りと罰」ではありません。確かにイエス様の言葉の中に厳しい部分があります。それでもイエス様がもたらされたのは、愛と喜びに包まれた希望でした。この世の歩みは誰もが荒れ野を通過するように、様々な苦難を経験します。それでもその歩みが決して無駄にはならず、永遠のいのちにつながっていく。そのことを信じて歩み続ける。そしてその歩みを神の子であるイエス様も共にしてくださっている。これがイエス様を通して示された神様からの真のメッセージです。

 

「麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。これは恐ろしい裁きが行われるというよりも、私たちの中から真に正しいものを取り出してくださり、私たちを不自由にし、罪にしばるもろもろのものを神様が焼き払ってくださることを表します。待降節という主の降誕を迎える準備の期間を過ごしている私たちとして、自分の中にある自分を不自由にしている様々なもの、神様から離れようとする心の傾きから解放されて、本当の自由と喜びをもって歩むことができることを祈り願いたいです。

 

この人生の荒れ野の中から、私たちが真に心の目を向けるべき方が誰であるかを思い起こし、私たちのためにご自分のすべてを与えて導こうして下さる方に、もう一度しっかりつながることを心にとめていきたいです。

 
 
 

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