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執筆者の写真 カトリック戸塚教会

2024年7月21日 年間第16主日

マルコ06:30-34


人間は誰でも気分転換が必要です。しかし気分転換のためにどこかに出かけたり、自分が好きなことをしたり、休むための時間をとったとしても、それでも十分に力や元気が回復しないということが起こります。人間の心と体というものは、単に休息するだけでは力を取り戻すことができない何かがあるように感じます。

 

自分の経験ですが、何かうまくいかないことやつらいことを経験した時、そのことをただやり過ごすよりも、そのつらい状態に変わりはなくても、何かそこに大事な意味を見つけることができたり、人から十分に理解してもらえなかったとしても、神様とのつながりの中で、神様がそのことをわかってくださっていると感じられる体験をしていくことが一番力になる気がします。

 

イエス様は人里離れた所で休むように言われました。人里離れた所は、イエス様御自身も求められた場所です。イエス様は朝早く人里離れた所に行って祈っておられました。そしてイエス様にとっての祈りは、御自分の父である方と何でも対話されることでした。よいことも悪いこともすべて御自分の父に話され、父の思いに耳を傾け、自分の思いではなく、天の父の思いに聞き従おうとされました。

 

人里離れた所、それは単に人から離れている所というよりも、神様に自分の心を向けることができる場所、神様に何でも話し、対話し、力をいただく場所だと言えるかもしれません。

 

人間の見方や考え方ではなく、憐れみの心で接してくださる神様の見方で物事をもう一度とらえ直してみる。たとえ人には通じなくても、神様とつながり、神様がそれでよいと思ってくださる神様の正しさにつながって歩む。

 

自分の経験ですが、人間同士で理解し合うというのは、本当にむずかしいなと感じます。そのむずかしさの中で、神様にふれることを通して、生きる意味を見出し、元気づけられることができたらと願います。他の人間には理解してもらえなかったとしても、父なる神様はわかってくださる。受け止めてくださる。そのような体験を大事にしていきたいです。

 

人間が考える物事の見方と神様が見ておられる物事の見方は違うように思います。人間の思いに引きずられることなく、神様の慈しみのまなざしに心の目を向けて、つらいことや苦しいことに出会っても、神様に心を開いて、神様に何でも話して、歩んで行けるように祈りたいです。

 

イエス様御自身も、何でも御父にお話しになって歩んでおられたと思います。

たとえ十字架につながる道であっても、その道を父なる神の正しさを思いながら歩まれたと思います。

 

天の父の持っておられる心の深さにふれていく場。そのために立ち止まる場。そのような場を自分の中に作っていくことです。

 

人間の知恵や思いではなく、神様の知恵、思いに目を向けていく。そのために祈り、そしてそのための休みが必要です。

 

祈りの中で何かを願うことだけで終わらずに、神様の目で自分のあり方を見つめ直すことができたら、きっと自分の中から自分の歩むべき道、進むべき道を見出すことができるでしょう。そのために、神様と触れ合うことができる場所、自分の生活の中に人里離れた場所を持っていたいと願います。

 

自分の生活の場から離れることができなかったとしても、今、自分がいる場を真の意味で人里離れた場所にしていくこと。気持ちの持ち方一つで今いる場が神様と心がつながり、神様の目で自分のあり方を見つめ直す人里離れた場所にしていくことができます。そして神様につながることで真に力を回復していく。そのような日々の生活を送ることができるように、私たちも真の意味で人里離れた場所に自分を置いて祈ることができればと願います。

 

 

 

 

 

 

 

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