マルコ16:15-20
最近私は、これは大事なことかなと気づいたことがあります。それは、たとえば自分は信仰熱心だと思っている人がいるとします。ミサにも定期的に与っているし、教会活動にも参加している。でもそのような人が本当の意味で救いを実感していない、心の中に平安を見いだせていない、そのような苦しみを持っておられる方が多いなと感じます。そしてそのような方々の話を聞いていると私はあることに気づきました。自分は信仰に対して熱心だと思っている人。でもそのような人の中からイエス様との親しさ、近さが伝わってこないということです。教会が自分の救いや安心を確保するための建物、場所でとどまってしまって、イエス様と親しく対話したり、自分の思い、感じていること、また祈りをイエス様に話したり、またイエス様の言葉に耳を傾けたりするまで至っていない、正直そのような状態で歩んでしまっている人は多いと感じます。教会には所属しているけれど、イエス様には所属できていない状態にいる人たち。もう一度、原点に帰って、イエス様と自分の結びつきはどうなっているか見つめ直す必要があると思います。
今日私たちは、主の昇天の出来事を記念しています。イエス様が十字架の死を経て復活され、40日にわたって人々にその姿を表された後、天に上げられたということ。出来事からすればそういうことです。でもそこにあるイエス様の気持ちや天の父の心を思ってみることが大事です。昇天という出来事は、ある意味でイエス様と弟子たちとの別れを意味したでしょう。天の父はイエス様が復活された後、ずっと弟子たちのもとに留まり続けることをなさいませんでした。復活されたイエス様が弟子たちのもとから離れて天に向かわれる。でもそのことを天の父が弟子たちのためにあえてなさったのだと思います。イエス様がこの世に残り続けられれば、もっと大きな業をなさることができたかもしれません。でもそうなると、弟子たちはいつまでも弟子のままで終わってしまったでしょう。イエス様が全部してくださる。イエス様にまかせて自分達は何もしなくて、ただついていくだけでよい。そのような思いを持ってしまったかもしれません。でも神様のお考えは、これからは弟子たちがイエス様の働きを引き継ぐことをお決めになります。
イエス様は言われます。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」これは、これからはあなたがたが、私がしてきた働きを引き継いでいきなさいとの意味です。そして弟子たちもイエス様と同じように働くことを通して、自分達も救いの喜びを体験することを望まれたということです。救いとは、私たちがじっと待っていることではありません。神様が考えておられる私たちの救いは私たちがイエス様に従って動き、働くことを通して、一人ひとりが実感していくもの、感じ取っていくものだということです。その使命を果たすことができるように、イエス様は聖霊を送ることを約束されます。弱い人間である弟子たちが、この使命を生きることができるように「聖霊」という神様の力が与えられます。
イエス様は、御父のもとに戻られる前に、弟子たちに「わたしはあなたがたをみなしごにはしない」と言われていました。私は時が来たら、自分の父である方のもとに戻ることになる。でもそれはあなたがたのためによいことなのだ。そうすることであなたがたのために弁護者が送られ、その方があなたがたに真理を悟らせてくださり、導いてくださると言われます。イエス様の姿はやがて目で見ることができなくなる。でも、それはイエス様が私たちから遠く離れていかれてしまうということではなく、確かに目でイエス様の姿を確かめることはできない。でもこれからは聖霊の働きのうちに、イエス様は私たちの中に共にいてくださるということです。そのことを私たちが信じて歩むことが求められています。これからは自分たちの働きの中に、イエス様の存在を感じ取っていく。そのような心の態度が求められます。
本当の信仰の熱心さは、教会という建物に所属するということ以上に、イエス様につながっていく心の熱心さだと思います。まず、私たちができることは心の中でイエス様と親しく何でも対話していくことです。そのことを通して、自分とイエス様との距離が近くなり、イエス様を身近に感じることができるようになる。もっともっとイエス様を身近に感じて、歩み出すことができるように祈りたいです。
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