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  • 執筆者の写真 カトリック戸塚教会

2023年7月16日 年間15主日

マタイ13:01-9


イエス様は神の子としてこの世に御父から遣わされて来られました。そしてそこには二つの目的がありました。一つは傷つき倒れ力を失っている人々を力づけ、励ますこと。それによって人が立ちあがって天の父が望まれる道を歩むことを願われたこと。そしてもう一つは、私たちが御父へ向かい、御父につながるための道を明らかにするということです。私たちと共にいて、私たちが御父に向かって歩み生きるその中に、真の喜びと私たちの救いがあることを表してくださったのがイエス様です。そのイエス様の思いは今も変わっていないと思います。


今日の朗読の第一朗読と福音の箇所で共通するテーマは、それを行うことが無駄であるか無駄ではないかということにあると思います。第一朗読のイザヤの預言では、「雨や雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。・・そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」とあります。神様の口から出る言葉は、むなしく戻ることは決してありません。必ずその望みを成し遂げるとはっきりと言われます。神様のなさる事に無駄なことは一切ないということです。


福音のイエス様が語られた種蒔きのたとえ話はどうでしょうか。このたとえ話にあるように当時のパレスチナ地方の農夫が行う種蒔きのやり方は、日本のやり方とは違いました。日本では畑をきちんと耕してその耕した土地に小さな穴を開け、そこに種を落として、上から土をかぶせるやり方をします。このように種を蒔くことで少しも種が無駄にならないようにします。しかしパレスチナでは、土を耕す前に一面に種を蒔いて、その後にその土を掘り起こすようしていきます。蒔くときに多少石ころがあろうと、茨が生えていようと後で掘り起こすので問題にしないで一面に種を蒔きます。なぜこのようにするかと言えば、パレスチナは日差しが強いので、種を地中深くに入れなければすぐに干上がってしまうからです。このやり方は日本とは違って蒔く種が無駄になります。でもこの地方ではこのやり方が一番土地に合う方法だそうです。イエス様はそのようなやり方をよくご存知の上で、その農夫の種の蒔き方に注目されながらこのたとえを話されたのです。種蒔く人が石ころがあっても茨が生えていてもかまわず惜しみなく種を蒔いたように、イエス様もみ言葉の種を惜しまず蒔かれるということをこのたとえを使っておっしゃりたかったのです。


当時、イエス様は小さき人々、貧しい人、苦しんでいる人をまず大事にしていかれました。町や村をめぐって一人ひとり病人に手を置いていやされ、あえて手間のかかる方法を大切にされました。決して効率とか要領のよさとかを重視されませんでした。それが当時の指導者や権力者たちからは理解されず、ばかにされる経験もされたと思います。そのような状況の中で、イエス様はあえてこの種蒔きのたとえ話をなさり、一見無駄に見えても種を蒔き続けること、そして要領よく見えないことでも、かえってそれが大事なのだとお示しになられたかったのだと思います。そしてその無駄に思えることを通して、必ず大きな実を結ぶことも明らかにされたかったのだと思います。


無駄に種を蒔いたように見えても、必ずそれを受け止めてくれる良い土地が必ずあって、それらを通して大きな実りを得ることができる。イエス様はそれを信じて種を蒔き続けられる。このメッセージは、現代を生きる私たちにもつながっています。私たちも信仰を持って、神様を信じて日々歩んでいても、時にこれで本当によいのだろうか、神様は本当に働いておられるのだろうかなどの思いがよぎってもおかしくありません。私たちは、洗礼を受けていても、心と生きる態度においてまだ完全なかたちで神様と一致しているわけではありません。私たちにとって完全な救いはまだまだ将来の事として希望し続けなければなりません。それでも、その希望を持ちながら今を耐え忍び、生きること、あきらめずに種を蒔き続けることに大きな意味があることをイエス様はお示しになられたいのです。イエス様御自身も神の子でありながら、この世にあっては大きな苦しみを経験されました。それでも日々淡々と御父に向かって歩まれました。それが重い十字架を背負うことになったとしても、それを受け止められました。私たちはそのようなイエス様の姿を仰ぎながら、日々を歩んでいく必要があります。パウロは言います。「皆さん、現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」。このパウロの言葉のように今を忍び、忍耐しながら歩むことが将来必ず栄光に与ることにつながる。それを信じて歩むというのが私たちに求められている態度です。


今日の福音の後半にあるたとえ話の説明は、初代教会の人々がイエス様のたとえを分かりやすくするために考え加えたものだと言われています。私たちもイエス様の時代からかなり時間が経過した時代を生きています。それでも、今も私たちの心に響き通じるイエス様が蒔かれるみ言葉の種とそのイエス様の思いを大事にしたいです。そしてイエス様の蒔かれるみ言葉の力を信じて歩んでいきたいです。イエス様は今でもみ言葉の種を無駄に思えても私たちのために蒔き続けておられます。私たちがそのイエス様が蒔かれるみ言葉の種の内の一つでも耳を傾け大事にしていくことで、私たちもイエス様が望まれる実を成長される良い土地になっていきたいです。イエス様は今日も私たちにみ言葉の種を蒔き続けてくださっておられるのですから。



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