マルコ01:01-8
今年も待降節が始まりました。今日はその2番目の主日にあたります。待降節の始まりとともに灯されたろうそくも今日2本目が灯されています。このろうそくの光のように私たちの心も少しずつ照らされて、主の降誕の日を喜びをもって迎えるようにしたいと思います。
今日の福音に登場する洗礼者ヨハネは、荒れ野に現れて自分の後に来られる真の光について証ししました。そして人々に悔い改めを呼びかけました。荒れ野という場所は私たちの人生を表しているように思います。荒れ野は確かに私たちにとって苦しい場所です。生きるきびしさも求められます。しかし同時に私たちが真に頼るべき方、私たちが目を向けるべき方が誰であるか学ぶ場でもあります。誰もが荒れ野を通過することで、自分自身の弱さ、小ささを素直に認めること、それを通して「神様、私にはあなたが必要です」と自分の心を神様に向けていくこと。真の悔い改めとは自分のありのままの姿を見つめ、そこから神様に心を向けていくことです。
待降節の間、私たちは心の準備の一つとして赦しの秘跡を大切にします。なぜ赦しの秘跡が必要なのでしょうか。それは自分の中にある闇を見つめ、自分も神様の光が必要であることを認めて、神様の光に自分の心を向けていくためでしょう。イエス様がお生まれになったとき、宿屋には場所がなかったと聖書にあります。その宿屋は私たちの心を表していると言えます。私たちの心が自分のことだけでいっぱいになってしまっていたら、泊まる場所を求めて訪れて来られるヨセフ様とマリア様、そしてイエス様をお迎えすることができないということ。自分の心の中に、イエス様のための場所を持っている人になること。クリスマスを迎える心の準備をするとは、自分の心の中にイエス様のための場所を用意することだと言えます。人間のごうまんな心、自分を第一とする思いから、あらゆる悪や罪が表れます。そしてその心がこの世界の醜い争いや不和、混乱などあらゆる悲しみと不幸を生じさせます。もしキリストが身をもって示された貧しさとへりくだりの心、それをよく理解し、私達が少しでも実行していくなら、この世界はもっと平和で明るい喜びと安らぎのある場所になり、誰もが本当の幸せを感じて生きることが出来るようになるでしょう。
洗礼者ヨハネは悔い改めのしるしとしての洗礼を宣べ伝えました。もともと「洗礼」の意味は「水に沈めること」でした。洗礼者ヨハネの洗礼も人の全身を水の中に沈めるものでした。いったん水の中に沈み、そこから立ち上がることは、神様から離れている自分がその古い自分に死んで、神様によって生きる新たないのちに生まれ変わることを意味していました。私たちの心が深い闇から真の光に変えられていくために、神様から離れている古い自分に死んで新しいいのちを生きることが必要です。そしてそのためにイエス様がもたらされる聖霊のあたたかさに包まれることが必要です。洗礼者ヨハネが語ったようにイエス様は水だけでなく聖霊で洗礼をお授けになります。私たちは水の清めと同時に聖霊によってあたためられること、あたたかさに包まれる体験が必要です。
この待降節の間、大事にしたいことは、私たちが神様の本当のよさに気づいていくことです。天の御父がその最愛の独り子をこの世に送られたのは、光を見失い、力を失っている私たちをそのあたたかさで包み、正しい道に導き直すためでした。神の独り子であるイエス様は、ご自分も小さな貧しい幼子として生まれ、小さき人間の運命を共にしてくださいました。イエス様がお生まれになった馬小屋の場面をもう一度思い起こして、そこを最初に訪れた羊飼いたちのように清く素直な心をもって、もう一度神様がどのような方なのか心の奥深くで感じ取ることができるように祈りたいです。クリスマスまでの与えられたこの待降節の日々を静かに神様のあたたかい心を見つめる時として過ごしていきたいです。その恵みを共に祈りましょう。
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